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c
chidrenさん (7nfuh2nk)2020/9/8 22:55 (No.119716)
ダメな文章とは、文章のうまい下手は、二の問題だそうだ。
いい文章を書くための第一条件は、読解力があるかどうかだそうだ。
出題者の求めることに対応できているかどうかのことだ。

文章の読解力ではなく、ものごとへの理解力にも言えるのではないだろうか。
批判する文章をよく見るが、なにせ、対象となる出来事の把握がずれていることが多い。
真髄からそれているというか、枝葉しか捉えていないというか、わざわざ曲解しているものまである。
これらの原因の重要な部分を占めるのが、日本語能力の低さにあるように考えている。
正しく日本語を理解できれば、かなりのところまで改善できる問題だと思う。

もう一つ、いい文章を書くための条件は、ものごとを多角的に見ているかどうかだそうだ。
自分の主張だけの文章は、まず読んでもらっていないと考えたほうがいいそうだ。
返信
c
childrenさん (8xxl97s3)2024/1/31 14:45削除
虫唾が走る。
キツイ言い方をして申し訳ないが、本心だ。
以前も記したことがあるが、『グローリー』の「報道」ページ。
記者という単語が出てくると、不快さが全身から湧き、頭に入らない。

記者がどう思ったかなんて、読者は興味ないんだよね。
年中、そういう場にいる人間の感想なんて読んでもしょうがない。

読者が読みたいのは、参加者がどう思ったか。
参拝者がどう思ったか、なんだよね。
ところが参拝者の「さ」の字も出てこない。

しかも、どう土地狂ったか、記者の感想が尊大なんだよ。
笑っちゃうっていうか、恥ずかしくて、読めない。
そこまでわかっているなら、自分で宗教起こせよって言いたくなる。

尊大になりすぎて、取材しなくなり、凋落の一途をたどっている元大新聞社があったよな。
あれだけ尊大になると、取材に応じる気が失せるもんな。
取材できなくなったもの頷ける。

もちろん記者だって、感想くらい生まれる。
生まれた感想を発表したくなってもいいとは思う。
だが、立場を考えろってこと。
通常、雑誌など記者は編集者は、誌面の片隅、最後のほうにほんの数行記されている。
「編集後記」ってやつだ。

小生は、「編集後記」から読み始める。
短い文章なのに、実に生き生きと空気が伝ってくるんだよね。
まちがっても、本誌に1ページを使って、自分の感想を記す記者なんて、
一度たりとも会ったことはない。
凋落の一途をたどる元大新聞社の記者を除いてはな。
c
childrenさん (8xxl97s3)2023/11/30 22:56削除
少し前の号だけど、「レ・ミゼラブル」
親を「持っている」という記述があった。
たぶん、英語の「Have」を日本語にしたものだと思う。

英語では、親でも家族でもなんでも「Have」だ。
なんと便利なHaveだ。
学校で習ったが、英語が出てこなかったら、HaveとGetで行け! と。

英語圏の方々の感覚は、持つなのかなぁと思ったり、
我々日本人がHaveの本当の意味を知らないのかと思ったりする。

言葉というのは、単に知っている意味だけで、なんでもかんでも理解してしまうのは
怖いと思う。
TPOを考えて、理解していく必要があるな、とあらためて考えているところだ。

知っている言葉の意味だけで理解してしまうのは、み教え、聖言も同じだ。
明主様はこうおっしゃった、こう書いてあるというのはよく耳にするところだ。
そのせいで辻褄が合わなくなったり、がんじがらめになったりする。

小生は、聖言を拝読するとき、必ず「み心をいただかせてください」と心の中で言っている。
そうしなければ、なんか怖いんだよね。
c
childrenさん (8wvvh8wb)2023/11/28 22:47削除
昔、教わったことだ。
 小説などフィクションは、かぎりなく事実に近いウソ
 報道などノンフィクションは、かぎりなくウソに近い事実
この辺をねらって書くとおもしろいのだと。

この掲示板もノンフィクションに分類されるわけだが、すでに皆が知っていることを
書いても、おもしろくない。
かぎりなく事実に近い事実なんて、言っても、書いても退屈だもんな。

信仰の話だって同じだと思う。
お説教がうざいのは、すでに知っていることを言うからだ。
思いによらない、誰も知らないお説教なら、おもしろくて聞き入ってしまうと思う。
実際、仏教の話、僧侶の話はおもしろいと思う。

わが世界メシアは、小生の長い信仰経験のなかでも、今まで知らなかったことが多く
出てくる。
そもそも教祖、明主様の聖言自体が、今までの宗教にないものだ。
だから小生が信仰を辞めずに続けている理由の一つだと思う。
大きな理由なのだ。

同じ信仰をしているからといって、同じことばかり聞かされるのはたまらない。
もしかしたら明主様は、フィクション、ノンフィクションの狙いどころをご存じだった!?
本能的に、だけどね。
c
childrenさん (8wvvh8wb)2023/11/27 20:04削除
世界メシア教機関誌『グローリー』に連載中の
レ・ミゼラブル。
小生は毎号、楽しみにしておる。

しかし、どぎつい。
不幸の描き方がどぎつい。
そんなことする奴、いね~よ、と言いたくなる。
そんな目に遭いたくないとも思う。

これ、原文で読んでも、どぎついのかなぁ。
日本語の訳が、ニュアンスをつかみきれないだけだったらいいなと思う。
逆に、原文のほうがもっとどぎつかったりしてとも思う。

日本に長くいるせいで、
日本しか知らないせいで、世の中の見方が甘くなっているのかなと思う。
ハマスの残虐行為だって、正直、信じたくないもんな。
でも実際にあったことのようだし……。

世界は、想像以上にどぎついってことかな。
世界は、日本の真似をしたら、もっと幸せになるのに、と思う。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/8/11 23:03削除
わが世界メシア教でも、しばしば使われる「愛」の語。
古来、日本では愛は、性愛の意味に使われる用語だったそうだ。
人を慕う気持ちは、もっぱら恋と称され、貴族など身分の高い人々の
間では、高貴な感性だと捉えられていたようだ。
恋人になりたい人はいても、愛人になりたい人はめったにいないことを
見てもわかるだろう。

愛の意味が変わるのは、キリスト教伝来のころだという説がある。
伝道師たちは、神が人間を思う気持ちの意味を持つ語が、日本になかったので
あれこれ模索したとか。
その結果、「愛」となった。

歴史学あるいは言語学上、どうかは知らないのだが、少し前のほぼ同時期、
上杉家の直江兼続の兜に「愛」の文字を掲げていた例がある。
いくつかの説があるが、その一つは、愛染明王に由来するという説だ。
愛染明王、いかつい顔をした軍神だ。
炎のように燃え上がる思い。
キリスト教伝道師が、この炎のような思いに目を付けて、愛の語を選んだとした
のかもしれないと思ったりする。

愛といえば、現在、思いやりや優しさのような面ばかりのように思われている。
本当は、炎のように燃え上がる思いのほうだったかもしれないと思ったりしている。
そう捉えると、愛の嫌いな小生も、愛の語を受け入れることができそうだ。
そして、真明さまの書、「愛」もこちらに近い感じを受ける。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/18 21:09削除
例えば、世界史を誇大から系統立てて学んでいれば、
イエスの贖いから、明主様のメシア降誕もつながりやすい。
世界史をバラバラに学び、現代の現象しか知らなければ、脳内の整頓は難しい。

キリスト教とイスラム教は、根底的に相いれないように映りやすい。
しかし、コーランではユダヤ人やキリスト教者を「啓展の民」と呼び、尊敬の対象に
しているそうだ。
それなのに、なぜ、騒乱を繰り返すのか?
同じ神を信じ、その民を尊敬しながら、争闘を繰り返す。
その陰には、人間的な都合が、神を蹴散らしてしまったことを想像することもできる。

問題は、歴史を事実への探求と捉えるか、現状を正当化するための学問と捉えるかだ。
残念ながら、事実を探求する日本の歴史学も、学者の都合に流れつつあることだ。
そのことと、歴史不要、文系不要とは、あまりにも短絡的な結論が過ぎると思う。
事実の歴史学を尊重することに注力していくことが大事だと思う。
国家の繁栄にも影響するし、正直がバカをみない社会を作ることにも貢献してあまりあると思う。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/17 21:42削除
文系にもいろいろある。
国語力の必要性は、常々記している。
ここでは、歴史を例に考えてみる。

現代、国際情勢は、情報戦争だと言われている。
国土についての論争もあるところだが、これについては大いに
歴史力が求められる。
歴史など、いくら勉強してもビジネスにはつながらないし、就職もできない
というわけで、歴史学が衰退している国もある。

ちゃんとした歴史学者がほとんどいないところから、勝手な歴史を作り上げ、
わが国に押し付ける国もある。
わが国だって、勝手な歴史を作り上げて対抗すればいいという声もあるが、
これでは争いの連鎖になるだけ。
きちんとした歴史があれば、不当な歴史を押し付けられても、論理での対抗は
できる。

仮に、力ずくで不当な歴史を押し付けられたとしても、心の中までは変えられない。
事実は、変ることがないからだ。
事実は、主神様がお作りになったものだと小生は考えている。
どんなに時間がたとうとも、決して変わることはないと考えている。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/16 23:39削除
ここに来てしばしば耳にするのは、文系不要論だ。
文系人間の小生は、大いに疑問だ。

まず、理系は答えがある。
つまり、この答えが正しければ、それ以外の答えは間違いになる。
次に、理系は捨象する。
よけいなことは捨てて考える。
一つの物事が起こるには、ありとあらゆることが折り重なって起こる。

もちろん理系には、理系の必要性がある。
しかし、表に出ない答えにも目を向ける文系の必要性もある。

理系と文系、どちらも必要だと思う。
霊界も現界も、精神も肉体も、男性も女性も必要なのと同じように。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/15 18:16削除
ユーチューブサーフィンをしていて、びっくり!?
 『ほんとうのお父さま』
教団ではすでに多くの信者さんが読んだであろう、マンガ形式の冊子だ。
かわいい絵とかわいいストーリーが記憶に残っている。
あくまでも教団内での出版物だと思っていたからだ。

残念ながら、わが教団にはいまだに外部、半外部に批判勢力がうごめいている。
小さなミスを狙って攻撃してくる。
ときにありもしない捻じ曲げ解釈で、攻撃されることもある。
そんな奴らにわざわざ餌を与える必要はないと考えている。

何を言いたいかというと、タイトル。
「ほんとうの」
今はやりの家庭崩壊が目的なのかなど因縁をつけられかねない。
 本当の対義語は、「うそ」
じゃ、うちのお父さんは、うそのお父さんなのか?
と言われかねない。

現在、ネットでは、日本の家族制度を崩壊させたいという勢力がどうとか云々されている。
こんなときに、危険すぎるタイトルだと思う。
内容を読めばわかるが、脚を引っ張ろうとする奴らは、内容などおかまいなしだ。
疑わしきは罰するとばかりに、捻じ曲げる。
また、ややこしい因縁をつけられるのか! と少々うんざりした。

代案もなしに文句を言うのは奴らと同じになるのでは、どういうタイトルならいいかを
考えてみた。
内容にも合致しているタイトルは???
 えいえんのお父さま
これなら、まだタイトルだけを見て、因縁を付けられることはないと思うのだが。

もっと因縁をつけられて話題になることを狙っているなら、話は別だが。
週刊誌みたいに。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/10 21:59削除
生命保険のトップセールスレディ。
 社長直々に聞かされた極秘商品だと言うのよ。
実際に契約した商品は、ごくありふれたものだったそうだ。
 これって詐欺よね。
小生は、無理じゃないかなと答えた。
相手は、当然不満タラタラだ。

騙しはあるが、財物を得ていないというのが小生の答えの理由だ。
小生は誇大広告の一種になるんじゃないかなと考えた。

人間には誰でも、他人より得をしたい、他人より好かれたい、自分だけという気持ちがある。
この気持ちを狙って、自分の想いを遂げようとすることは世間には無数にある。
他人より……という気持ちはくれぐれも戒めていきたいと思った。
つけ込む側にも、付け込まれる側にもなりたくない。

思うんだが、この商品が本当に最高であったら、セールスレディも詐欺まがい
売り言葉をせずにすんだのではないだろうか。
ありのままを説明すればいいのだから。
最高でないという気持ちが、セールスレディにもあったのかもしれないと思ったりもする。

我らの神は、主神様。
信仰を説明するときには、ありのままを伝えていけばいい。
ありのままを伝えられるだけの説明力は養っていきたいと願っている。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/9 15:34削除
我が国でも歴史上、キリスト教が布教の機会を得ている。
有名なところでは戦国時代と明治維新期だ。
いずれも布教者にとっては、不本意な結果に終わったと言っていいだろう。
理由はいくつかあるが、語られていない意外なものもある。
日本人を納得させうる論理をもたらすことができなかったというものだ。

戦国時代は武将や公家たちが、明治時代には一般庶民もある程度の学識を持っていた。
これらの人々を相手に、布教者たちは納得させるだけの論理を語ることができなかったようだ。
いわば、日本人に論破される格好になったとか。
このことは、当時の布教者たちが本国に送った書簡から読み取れるそうだ。

日本で布教に成功したといえるのは、仏教だ。
仏教者の説法のレベルの高さに慣れていた日本人は、キリスト教布教師の論理では飽き足らなかった
のではないだろうか。

ヨーロッパでは教科書に出てくるほど有名な大王でも、読み書きができないことは珍しくなかったとか。
日本では1000年も前に女が読み書きをしていた。
こんな例は、世界でも、あの教育熱心なユダヤでも見られないそうだ。

そんな日本で布教してきて、これからも布教していくであろうわが世界メシア教も、教えの論理くらいは
身に付けていないと理解を得ることは難しいだろうなと思う。
唯物的利益も、強制力も通用しない論理を日本人は昔から身に付けていたのであるから。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/8 20:00削除
ある信者さんから、世界メシア教が裁判で敗訴したことについて、
言われた。
敗訴自体には不満はないようだが。
 裁判なんかしなかったらよかったのに。
 よけいな金を使っただけじゃないか。

小生は、個人的な捉え方だとことわったうえで答えた。
 教主様が教団を見捨てたわけじゃなく、(当時の)教団が教主様を追い出した。
 この事実を歴史に残すためには、裁判をする意義がある。
 だから金の無駄遣いとはいえないのではないか。
この信者さんは、納得したようなしないような顔をしていた。

いづのめから信者さん方が教主様とともに世界メシア教に合流した経緯を見ても、
信者さん方がいづのめから逃げたのではなく、追い出された。
この事実を歴史上に残すために、例の鍵を取り替え、信者さんを締め出すという
過去がある。

主神様というか明主様は、教団から逃げ出したのではなく、教団から追い出されたという
事実が必要だったのでないかと考えている。
逃げ出した、あるいは見捨てたという歴史より、追い出されたという歴史のほうが
世間の理解を得やすい。
裁判までしてとどまる努力したという歴史まで加われば、より追い出された歴史が歴然とする。

いつもながら、主神様のなさることは完璧すぎるほど完璧なのには驚くばかりだ。
というわけで、小生個人は、裁判のことはとっくに納得していたので戸惑いはない。
だからといって、すべての信者さんが納得しているわけでもなさそうだ。
したがって教団としては、裁判の受け止めを公表する必要があると考える。
経緯を逐一公表していれば納得は得やすいが、これまでダンマリを決め込んでいたのだから
納得できるような説明をするのはそう簡単ではない。
ただ、遅くなればなるほど信者の不信感は水面下で増幅していくのではないだろうか。

主神様が与えてくださった事実に即して説明する。
このためには、やっぱり日本語力が重要だと思うんだけどなぁ。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/26 15:48削除
う~ぬ、やっぱり気になる。
どうしても気になる。
以前も記したが、『グローリー』の報道、ニュース記事だ。
記者の主観満載なのが気になるのだ。

 想念のことはどうしろこうしろというと堅苦しくなる。
わが教祖、明主様は、こんな趣旨の発言をされている。
小生は大いに共感し、明主様に魅了された一節でもある。

行事について、記者がどんな感想を持とうと自由だ。
だが、記事の大半がそこに集中しているのはいただけない。
もちろん教団として、「そう思え」という方針があるなら別だが、その場合は
教団の意思であることを明記する必要がある。
そもそも、主観満載になれるなど、記者の仕事をしながらそんな余裕があるかという
気持ちもある。
伝える事実を逃さないようにするだけで精いっぱいだと思うんだがな。

とはいえ、記者だって、おそらく信者だろう。
いろんな感想があり、意見があっても、当然だ。
それを報道・ニュース記事に記すから、おかしくなる。
そこで、オピニオンページのようなものがあってもいいのではないだろうか。
信仰雑感ページでもいいかもしれない。

以前の体験談ページのように、とってもつけたような「いい子ちゃん」ページではなく、
誰にも気兼ねすることなく記せるページだ。
そのためには、匿名も可とする。
もちろん、実名も可だ。

和歌を作れる信者は限られるが、ただの文章なら誰でも書ける。
いたずら投稿が混じる心配もあるが、そこは主神様への信仰だ。
機関誌に掲載されたこととて、信者なら主神様に奉告する。
いたずらやおかしなことは、すべて主神様もご存じだということだ。
他力本願過ぎるというなら、
実際にやってみて、手に負えない事態が起これば、その時点で対策を考えればいいことではないだろうか。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/24 20:21削除
論拠は定かではない。
ただ虚偽を作り上げる理由は見当たらないので、事実だと考えている。
 最後は、五六七大神になるというみ教えがある。
当時の主の光教団の専従者から直接聞いた言葉だ。

この「最後」という言葉に引っかかりがあって、小生は「大光明」のご神体を
すんなり受け入れることができずにいた。
最近では受け入れているが、そのきっかけになった考えは、
「最後」の捉え方だ。

明主様の聖業は、多くは仏界にあった。
その仏界から、メシアの世界に移り変わる、最後の仏界のご神体が「五六七大神」だった
と考えたのだ。

小生は、仏教界を否定する気は毛頭ないので、あまり言いたくはないが、論理として
避けて通れないので、あえて記した。

小生の出身教団は、主の光教団。
自画自賛になるのはご甘受いただくしかない。
仏界最後のご神体を奉斎させていただけたのは、主の光教団だけ。
「大光明」のご神体を奉斎させていただく教団は、他にもいくつかあるようだが、
仏界からメシアの世界への移り代わりを、ちゃんとした手順を踏んでいるのは
主の光教団だけとなる。

その主の光教団に、教主様を戴けた。
またまた自画自賛で恐縮だが、必然性を感じるんだよな。
神様は几帳面だから、きちんとして手順を踏んで、教主中心の体制を再び実現させてくださったのでは
ないか、とな。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/23 18:17削除
教祖、明主様のご聖言には、こんな記述がある。
たしか『天獄の礎』で拝読したと思う。
水耕栽培についてだ。
 戦時の食糧難のとき、一時的な手段としてはありうる。
 しかし、危難が去ったあとは、なるべく早い時期に止めるべき。
要約だが、こんな趣旨だったと記憶している。

ご神体についても、120歳まで生きると仰っていた教祖が突如、この世から
姿を消し、教団は不安と混乱の状況にあった。
日本不敗神話が崩れた、戦後のわが国と似ていたのではないかと思う。
その混乱のなか、「いや、私はいなくなっていない」ことを証明するために、
二代様の手をお使いになって、明主様がご神体をご揮毫になったのではないか。

ご神体は、教祖のご揮毫になったもの。
これは、厳とした基本。
対して、例外として一時的に認められたのが、二代様、三代様のご揮毫されたご神体では
なかったのだろうか。
水耕栽培の聖言からも、一時的な例外は認めていらっしゃったことが読み取れる。

4代教主様になって、教主中心体制が再びスタートした。
その時点で、ご神体は素早く明主様ご揮毫のものにもどした。
教団中心体制という戦後の異常事態が去ったということだ。
もちろん、基本として明主様ご揮毫のご神体にもどしたのも、明主様ということになる。
「私は、今も、この世にいるよ」と仰らんばかりに。
結局、これまでのどのご神体もすべて、明主様のご揮毫されたものだった。
これが、小生のたどり着いた。

ちなみに、小生の出身教団である主の光では、三代様ご揮毫のご神体のあと、
明主様ご揮毫のご神体「五六七大神」だったことがある。
これについては、つい最近まで、どうにも説明できずにいた。
未練たっぷりだった。
長くなったので、この件については、次回に記すことにする。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/22 13:48削除
「そのまま」問題は、ご神体にもいえる。
二代様批判の最大理由は、ご自身でご神体を揮毫されたことだ。
 明主様は、「私の書いたもの」をご神体にするように仰っていたそうだ。
二代様がご揮毫したものは、明主様がご揮毫したものでないから、おかしい。
教団が紛糾したのは、そのせいだという声が上がっていたそうだ。

これについては、小生もなかなか腑に落ちずにいたものだ。
しかし、最近は、納得している。
まず、教団は、それ以前、つまり明主様ご昇天により紛糾していたようである。
つぎに、二代様がご自身でご神体をご揮毫なさったのは、この紛糾を収めるためだった。
ご神体を揮毫できるということは、明主様の役割を継承しているからという証明のようなものとして
始められたのではないかと考えられる。

これまでも自分が一番明主様に信頼され、後継者だと言っている先達はいるが、
さすがに自分でご神体を揮毫したという話しは聞かない。
二代様が、揮毫できたということは、明主様のご意思を感じ取られていたからではないかと思う。

では、「私の書いたもの」という聖言は、どうなるか?

申し訳ないが、時間がなくなったので、続きは明日に記させていただきたい。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/21 22:16削除
外務省も、多くの官庁も、メディアも、
ギリシャと記す。
しかし、学校関係は、ギリシアと記すことが一般的だ。
文科省のHPを見てみると、ギリシャとギリシアの両方の記述があった。

わが世界メシア教も、元教団関係者の一部からは、
 明主様は「メシヤ」と記しているのに、「メシア」とは何事だ。
 明主様の意図から離れている。
と言われることがある。

小生も、まったく気にならないこともなかったが、「そのまま」であることは場合によるのでは
ないかと考えるようになっている。
明主様の時代は、「ヤ」と記すのが一般的だった。
しかし現在は、「ア」と記すのが一般的だ。
進取の気風に富まれていた明主様が、いつまでも「メシヤ」のままだというのは古臭くていやだと
思われて、「メシア」に訂正されたんではないかと考えている。
「メシア」にしなければならないように、手配されたということだ。

では、すべてがすべて、変えていいかというとそうとは思わない。
例えば、ご神影。
これは、明主様の手によって撮影されたとおりのものにしている。
別にわが世界メシア教のご神影だから擁護しているつもりはない。
理由は、プロカメラマンから聞いた話だが、
 人物写真は一般に、目に焦点が当たっているものを選ぶといい。
明主様は、わざわざ「お腹に焦点を当てる」ように指示されて撮影されたという。

つまり何も指示しなければ目に焦点のある写真になったものを、そうならないように
わざわざ「お腹に焦点を」と仰ったことが推察される。
明主様の意図が読み取れるわけだ。
だから、明主様の意図の現れたご神影であることに、意義があることになり、
「そのまま」がいいということになる。

結論から言えば、「そのまま」でいいこともあるし、変えてもいいこともあるのではないかというのが、
小生の結論だ。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/20 22:25削除
その昔、某グローバル企業と仕事をした。
ドルだったか、ポンドだったか、ユーロだったかは記憶していないが、
通貨の「信認」をめぐるやりとりをした。
そのグローバル企業の文書では、「信任」と記されていた。
明らかな誤字だったので、改めようとしたところ、グローバル企業の担当者は
待ってくれと言ってきた。
CEOの裁可を得た文書なので、勝手に直すことはできないとのことだった。

だって、だって、誤字じゃないか。
誤字のまま表に出たら、恥をかくのは、そのグローバル企業だよぉ。
と言ったが、そのグローバル企業は頑として、CEOの裁可を得なおしてからだと言い張ってきかない。
そのCEOはイギリス人だかアメリカ人だか、とにかく日本人ではない。
日本語の誤字がわかるはずないじゃないか!?

宮仕えとはこんなもので、とにかく自分で判断することを避けようとする。
教主様や真明様のご聖言でも似たよう忖度が働いているのかもしれないと思ったりする。
小生だって、宮仕えの立場がまったくないわけではないので、やはり同様の心理に見舞われるだろう。
そこで、小生なら、どうするかを考えてみた。

まず、通常の日本語の語順にしたもの、また「やっている」「している」など「い」を入れた文章言葉に
したものを真明様に見せる。
(いわば著者である真明様に、著者校のようなことをしているのだろうという前提に立ってだが)
そのさい、なぜ、そのように変えたかの理由も、別書きにして添付する。
自分は、このほうが読者は読みやすいと考えましたと付記する。

そのうえで、なお、真明様が「NO」といえば、それは変えない。
どこまでも、著者の意図を逸脱することは適切な行為とは思えないからだ。
ただ、感想や意見くらいは言っても、けっして無礼には当たらないと思うんだが……。
身近なところで、お人柄に触れたことはないから、何とも言えないので、そのへんは編集者の
皮膚感覚で方法を変えていくしかないんだろうがな。

ちなみに、真明様と単記にしたのは、教主様の文書を拝読していて、読みにくいと思ったことがない
からだ。
話した言葉を文書に起こしてはいるが、文章としても違和感を感じたことはない。
日本語として、しっくり入ってくる。
イラついたこともない。
むしろ、日本語として、美しいなと思うことが多い。
小生個人の感想だが。
したがって、今回の、この投稿からは除外させていただいた。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/19 18:14削除
明主様のご聖言は、一言一句違わず、そのままでという意見があるそうだ。
一応、その通りだとは思うが、どこかにひっかかるものがあるのも事実だ。
というのは、今と聖言がなされた時代との言葉にズレがあるからだ。
 例えば、ずつ と づつ。
聖言の時代は、づつ が多く使われたが、現在は ずつ でなければ学校でも減点される。

ずつ くらいなら、当時のものは当時のままでいいと思う。
引用に使うときなどだ。
しかし、すぐに思い出せないが、明らかな誤字と思われる表記もごくわずかある。
これなどは、そのまま使い、(  )下記で説明してもいいと思う。
一言一句違えてはいけないと意見の理由は、明主様は幾度も推敲を重ねたものだからという。
たしかに幾度も推敲を重ねたのだろうが、短時間に推敲を重ねると、誤字に気づかないことも多い。
推敲は、目を替え(推敲する人を替え)ないと、正確にはならない。

目を替えたところで、著者と推敲者との関係で、お互いに遠慮が生まれ、誤字かもしれないと
思ってもスルーしてしまうこともある。
ひっかる理由の一つは、そんなところに、まずある。

このたび、歴代の教主様や真明様のご発言も聖言とお呼びすることになった。
これについてもそのままでいいとは思うのだが、絶対正しいとしてしまうことに不安がある。
小生は、毎月の『グローリー』誌などで、教主様や真明様のご聖言を拝読している。
 ……やってる、思ってるなどなど。
これは、お話になったことを、なるべくそのままで活字にしているせいではないかと思うが、
非常に気になる。

話し言葉では、 やってる、思ってる、言ってると言うが、文章にするときは、
        やっている、 思っている、言っている としたほうが収まりがいい。
会話言葉をそのまま文章言葉にすると、砕け過ぎた感じが否めない。

また、倒置法だ。
お話になったときは、主語が最後に来たりしているのだろうが、文章にするときは、
普通の日本語の語順にしたほうが読みやすい。
一つや二つ混ぜるのは読者を引き付ける役目を果たすが、あまりに多すぎると、読みにくくて
イライラ状態になるのだ。

倒置法は、そこを強調するために用いられるが、多用しすぎると、緊張の連続となり、
読者を疲れさせるせいではないかと思う。

基本的には、「そのまま」でいいと思うが、そのままでなくしてしまったほうがかえって
そのままを表現できることもあると思う。
以上は、小生個人の意見だが、いかがなものであろうか。
c
childrenさん (7nvg7vmt)2020/9/19 21:00
朝から晩まで、英語の方法を聞いていたら、英語が話せるようになる、と。
まったく無駄でもないだろうが、あまり効果はないらしい。
なぜなら、人は自分の理解できない部分は、シャットアウトしてしまう習性があるからだそうだ。

これは、何も英語に限った話ではないと思う。
日本語でも、自分がわかる部分は聞いても、よくわからない部分は無意識にスルーしてしまう。
御教えでもそうだ、自分がわかる部分だけ、あるいは関心のある部分だけは取り入れるが、
そうでない部分は、無意識のうちに、読み流しているように思う。

自分がわかった部分だけで、明主様はこうだ、と断定してしまう。
自分のわかった部分と違えば、あの人はみ教えから外れているとか言い出す。

もちろん、すべての御教えを理解できる人はかなり少ないと思う。
だからこそ、すべてのことを一旦、主神様に返したうえで、行動する意義があるのではないだろうか。
返信20
匿名さん (7l3hghdg)2020/7/11 21:58 (No.100732)
祭政一致。
宗教信者の目で見れば、祭政一致が望ましいと思う。
いろいろな災害、その他、政治家の腐敗なども宗教心があれば
かなりの部分まで回避できただろうと思うことが多い。

だからといって、現状では不可能だ。
まず憲法上、不可能だ。
仮に憲法の制約がなくても、どの宗教によるかという問題がある。
各宗教が「わが教こそは」と言い出し、逆に争いを招く。
したがって、現状、政教分離でいくしかないと考える。

ただ、宗教があたかも迷信だとでもいわんばかりの風潮は、少なからず
やりにくい。
せめて、宗教を否定しない社会であってくれればと願うばかりだ。
返信
c
childrenさん (8xxl97s3)2024/1/13 21:22削除
台湾総統選挙、民進党・頼清徳氏、当選おめでとうございます。
とりあえず、台湾が香港にならずにすみそうだ。
アグネス・チョウさんが気の毒でたまらないからな。

台湾といえば、親日で有名。
その他、アジア、南米、アフリカ、ヨーロッパ、北米にも日本の企業や文化が
広まっている。
北米やヨーロッパはさておき、その他の国々、いわゆる発展途上国と呼ばれる
国々には、日本へのあこがれがあるからだと思う。
実態は知らず、ただ何となく憧れる。

ま、海外経験のある日本人からもよく聞くのだが、
日本にもいたらないところはたくさんある。だけど、外国に比べるとマシ。
マシ、でしかないということでもある。

日本に、日本文化が消えつつあること、謙譲の美徳とかも消えつつあること、
拝金主義がはびこりつつあること……。
この実態を知ったら、と思うと怖い。

実態を知られていいというくらいの日本にしていきたいなぁ。
c
childrenさん (8xxl97s3)2024/1/10 22:18削除
哲学はめんどくさいほうだ。
かといって、つきあいということもある。
今旬の哲学者だと聞いて、アマルティ・センをちょっとだけ調べた。

センといえば、ケイパビリティ。
潜在能力と訳されているようだ。
といっても、超能力の類ではない。
知識というか、勉強しろってことのようだ。
ああ、めんどくさい。やっぱり、めんどくさい。

これは、センではなかったかもしれないが、人間にとって究極の幸福は、
   自由。
だからといって、自由を与えても、幸福にはならない。
それは、自由の使い方を知らないからである、んだと。
潜在能力を生かせるようにしない限り、正義の社会は来ない。
とまぁ、こんな感じかな。

潜在能力の一つは、
 人前で恥ずかしがらずに話せる。
というものがある。

流行のビジネススキルなんだが、ずいぶんアナログ。
小生も、恥ずかしがらずに人前で信仰の話しができるようになるぜ!
匿名さん (84fbi33v)2021/11/17 20:31
宗教をとりまく社会風潮は、依然として厳しいものがある。
わが世界メシア教にかぎっては、この厳しい風潮の指摘が当てはまらないと
思う。
しかし、これは、内部の一員である小生の口からいくら言っても、大幅に
差っ引かれるだけなので止めておこう。

バブル真っ最中のこと、ある地上げ業者がこんなことを言っていた。
「宗教の人はちょろいよ。教団に言っていけば、簡単に落ちる」
地上げに反対する地主がいても、その地主が宗教信者であれば、教団に頼めば
簡単に反対の姿勢を変え、協力するようになると言うのだ。

小生の身近なところでも地上げがあった。
そこは地域全体で地上げに反対の態度をとっていた。
もちろん本当に反対なのではなく、価格を吊り上げるためのポーズとしての反対だ。
そのなかの一人が、某宗教団体の信者だった。
地上げ業者が教団に相談に行くと、簡単に、この人は反対組織から抜けた。

そのことがきっかけになり、反対派も売りに転じたのだが、
やはり最初に抜けた一人は、他の地主さんたちよりかなり低価格で売ることになって
いた。

地上げ側もさることながら、地主側もなかなかのもので、小生から見れば、
どっちもどっちではあった。
地上げといえば、暴力行為や嫌がらせはしばしばニュースになっていたが、こんな手段は
あまり報道されることはなかったのではないだろう。

しかし、地上げ業者は、いたるところで自慢話的に吹聴していた。
こういうことも、宗教のイメージアップの足を引っ張る出来事なんだろうなと
思う。
返信3
c
childrenさん (7l98t51v)2020/7/15 22:42 (No.102500)
自然農法の原理は、人間を含めた生き物の健康にも通じる。
医療や医薬品を用いなくても、神から与えられたもののみで健康を
回復できるというものだ。

自然農法と同じように、健康のしくみも、当時は世間からの手ひどい非難にさら
されたようだ。
いや自然農法以上かもしれない。逮捕された例もあるようだ。
今なら、医療関係者の間でも理解者が増えていることを思うと、無知の怖さを
痛感する。

これも自然農法と同じで、我らの教祖、明主様は薬害を知らせた人物ではあるが、
プライオリティのトップは、神の愛を教えることにあったと思う。
害のある医薬品を用いなくても、健康は、神から与えられたものだけで、回復する。
これを教えるのが主目的だったと思う。

しかしながら、あたかも、薬害を教えることが主目的であったかのような発言を、
しばしば耳にすることがある。
小生としては、カリカリする時間になっている。
返信
c
childrenさん (8xxl97s3)2024/1/6 15:35削除
新年早々、涙活だ。
能登地震の被災者のもとに、ようやく物資が届いた。
自衛隊の活躍する姿を見ていると、さすがに泣けるな。

人は苦しみのさなかにいるときは、涙なんか出ないことが多い。
泣いてる余裕なんかないのだ。
地震のニュースを見ている最中には涙も出ない。
ほんの少し光明が見えたとき、ようやく涙が出た。

思い出すのは、小中学時代の自衛隊員の子どものことだ。
今にして思っても、教師はあのとき、ほんとうに冷たかった。
自衛隊員の子どもにだけ、冷たかった。
面と向かって、はっきり攻撃する教師もいた。

自衛隊員の子どもは、黙っていた。
背筋をきっと伸ばして、黙っていた。
子ども心に、小生は彼のことをカッコいいと思っていた。
そんなときのことも思い出し、涙活に拍車がかかったようだ。

今は、さすがに自衛隊員を面と向かって攻撃する人は少ない。
不合理な時代も、ようやく終わりに向かって動き出したというところだろう。

涙と、鼻水で、小生の頭も少しすっきりした。

今年はいい年になるかもな。
c
childrenさん (8xxl97s3)2023/12/30 10:31削除
最近、若者の間で「涙活」という言葉が流行っているそうだ。
若者といっても、20代前半くらいだな。
その影響で、小生はみていないが、特攻隊の青年に恋する女性の映画が
人気なんだとか。

涙は、意外に、健康にいい。
涙を流すと、痛みも軽減すると聞いたことがある。
思い返すと、悲しい流行歌がはやるのは、景気のいいときだとか。
これから景気が上回るときなのだそうだ。

このところやたら元気にさせる歌ばかり流行ってきた気がする。
前向きすぎるというか、人間ってそんなにいい子の面ばかりじゃないよと
思ってしまって、うそっぽい。

そろそろ局面が変わってきたということかもしれない。
若者が涙を流したい欲求に駆られている。
涙を流す快感にめざめているのかもしれない。

来年は、大いに涙を流して、健康になって、
世の中も健康になってくるのではないか、期待している。
c
childrenさん (8wvvh8wb)2023/11/15 21:21削除
ネットには、実に様々な情報があふれている。
若者がやっているユーチューブだが、
 がんを含めて腸系の病が、増えるのは100年ほど前かららしい。
若者たちは、原因として、
 食生活の西洋化
だと明言した。
 肉とかパンとか食べ始めたと、絶対関係あるよ。
と若者たち同士で納得していた。

若者たちは、医療関係者ではないようだ。
ただ、いろんなことを分析させると、実におもしろい。
その一つとして、食生活の西洋化と病の関係を分析したというしだいらしい。

肉食の危険は、先月だったか、真明さまも話していたところだ。
明主様の先見性には、いまさらながら、驚くばかりだ。

なんだけど……
教団で自然食の販売がなくなったのは、実にイタイ。
価格もそうだが、求めるための時間も、それだけかかる。
参拝のついでに自然食を入手できた時代に、今となっては感謝の一語。

教団として無理なら、信者の自発的行為でもいい。
自然食を扱ってくれないかな、と願うよ。
どういう手段でもいいから。
c
childrenさん (8wl4lqt0)2023/10/31 06:27削除
イスラエルのやり方が、人道違反だという声は多いが、
ハマスに人質全員を解放しろとう声は出ない。

人質さえいなくなれば、イスラエルの反撃に正当性はなくなる。
ここが、根本だと思うがな。
対症療法しか視野になんだな、世論ってやつは。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/13 22:02削除
1回の投与で、がんが消え去る新薬ができているとか。
健康保険システムが崩壊するのを恐れて、日本では認められる気配がないのだそうだ。
なにせ、その薬は1回1000万円!

このことを真偽を確かめていないのだが、この話をしてくれた人物は残念そうだった。
家族に2名までもがん発症者を抱えているのだ。
気持ちは痛いほどわかった。
人命は地球より重たいのもわかる。
なんと答えたらいいか、小生は迷いに迷った。

そして、少し的をずらして答えた。
 その薬、リスクはないのか? 
 思わぬ副反応があらわれることはないのか?
この点には、この人物も同調していた。
 その問題はあるな。
 でも、1回の投与でがんがきれいに消えるんだ。

がんに悩む患者は、がんさえ消えれば、すべての問題が解決するように錯覚する。
がんに限らず、あらゆる問題を抱えていると、その問題さえ解決すればと錯覚する。
その気持ちを責めることはできない。
小生だって、その一人だ。

だけど、目の前の問題を解決したばかりに、もっと深刻な問題を招来することも
ありがちなことである。
すべてを一度、主神様に返上することを教えていただいていることをありがたく思った。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/7/2 23:55削除
敬語が乱れていると言われて久しい。

お召し上がりになられる。✕
お召し上がりになる。〇
敬語を並べていればいいと思い、やたら敬語を並べるのは二重敬語といわれ
間違い。
一つの語に、敬語は1つでいい。
召し上がるという敬語をつかったら「なります」でいいのだ。

ところで、
お食べになられる。〇
なのは、あまり知られていない。
ただ、文法的に〇なだけであって、あまり使われていない。
この理由は明確ではないが、
「食べる」の古語「たぶ」は謙譲語なので、その名残ではないかという説がけっこう多い。

文法の話をしたくて記したわけではない。
言いたいことは、昔の人は、飲食は恵まれるものだと考えていたのではないかと思うことだ。
謙譲語ということは、何かに対して、自分を低めているということだ。
魚や野菜に対してへりくだる文化は、日本にはないので、魚や野菜を与えてくれた存在に対して
へりくだって、たぶという謙譲語を使っていたのではないだろうか。

「たぶ」ものは、飲食ともに使われたが、命をつなげてくれる存在がいることを
昔の人は知っていた。
現代人より、賢いではないかと思えてくる。
返信6
c
childrenさん (7lrvzh5a)2020/7/28 23:51 (No.106929)
「神さま、あなたは生きています。
 私の中で、生きています。」

わが教団の信者が、朝拝のときの唱和する「祈りの言葉」の
冒頭の2文だ。
唱和するたび、なぜか目前が晴れ渡る気がしてくるのは錯覚だろうか。
いずれにせよ、気分がよくなることは間違いない。

人はすべて、主神様の分け御魂だ。
だれの中にも神様はいらっしゃるわけだ。
メシアの救いを信じるということは、眠っていた分け御魂が活性化すること。
唯物的な捉え方かもしれないが、そんな表現で捉えたりしてみたりしているのだが。
返信
c
childrenさん (8wvvh8wb)2024/1/4 17:04削除
年末のネット番組で、宗教についての座談会があった。
さっそく見てみた。
そのなかで、例の上祐氏が言った。
 カリスマがいなくなる時代だった。
これは、小生も考えていたことだ。

明主様にしても、イエスにしても、メシアになった時に、この世から
姿を消した。
たしかにメシアになる、メシアのミッションを受け入れるために必要なこと
だったかもしれない。
だけど、この世に姿を置いたままでも、よかったのではないかと。

そう考えて、導き出した結論はこうだ。
皆がメシアの時代なら、別に問題はない。
けれど、その時代に1人しかメシアがいない時代には、姿の見えるメシアが
在世していたら、皆が頼り切ってしまう。
誰も、自分の頭で考えて、結果の責任をとらずにすむほうを選ぶだろう。
このために主神様は、メシアになった瞬間、この世から連れ去ってしまったのでないだろうか。

つまり、人間さんよ、わるい頭でも自分で考えて、自分で行動し、責任を取りながら
進化してくれよな。メシアへの道を歩んでくださいな。
というわけだ。

まして現在、誰もがメシアへの道を開かれている。
メシアっぽいカリスマも不用になったということではないだろうか。

小生は、人と接するとき、その人のなかのメシアと接する気持ちで向き合うように
心がけている。
まだまだ少ない結果しかないが、現時点では、このコミュニケーション、なかなか好感触を
得ている。
誰もがメシアへの道を歩んでいる時代なんだから、予行練習のつもりでも
 人を見たら、メシアと思え
その前提のもとで、接してみてはいかがだろうか。
c
childrenさん (8x6p95ma)2023/11/16 23:30削除
ある宗教の信者さんが言った。
 自分の教団の人とはかかわらないことにしている。
 宗教教団の人って、何かをしてもらっても当たり前だと思っている。
 率直に言って、厚かましいと感じてしまう。

小生は、わが世界メシア教信者からも同じようにことをたまに聞く。
商売をやっている信者さんの家族が言った。
 店に来ても、お金を払わない。
 他のお客も手前もあるし、商売物なんだから、ただってのは図々しいと思う。
 だから、二度と、連れてくるなと、言った。

おそらくだが、このケースでは、信者が代金はいらないと言ったのだと思う。
おそらくだが、商売物を欲しいからではなく、布教のために訪れたのだろうと思う。
しかし、これは、布教する側の事情である。
布教する側に押し付けるのはおかしい。
おそらくだが、神様の名のもとではなんでも赦されると思い込んでいるのではないかと思う。

教会制時代には、生活にさえ困る布教師もした。
信者さんの好意に甘えて生きていた布教師もいた。
けれど、今は、布教師は給料性になっている、と思う。
生きていくだけの金銭はもらっている、と思う。
信者にたかるようなことは、布教にとって逆効果にしかならないと思う。

かといって、布教のための出費を自腹に、というのは酷だ。
そこで、布教のための経費は、領収書提出で、教団に請求できるようなシステムにして
はどうだろうか。
会社員が、交際費などを請求するようなシステムだ。

そもそも、布教師は、どの信者にも平等でなければならないと思う。
おごってくれることが重なれば、その信者を特別視せざるをえなくなる。
これが、怖い。
特別視されなかった信者さんの不満は、水面下でどんどん肥大化していくものだからである。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/8/16 22:38削除
平成30年秋季大祭の前日、職員などを集めた会合での聖言のようだ。
「天国にいる実感がない」という質問についての、真明さまの聖言だ。
 実感はすでにある。

小生も、天国にいるという実感はなかった。
だが、聖言でしっくりきた。
信仰2世であり、3世である小生は、いつ入信したかの正確な記憶はない。
しかし、信仰をしていると知ったとき、この信仰をどこまでも続けていこうと考えた
ときの記憶はある。
そのとき、嬉しいというか、なんというか、大事なことだと思った記憶が明確にある。

天国にいることの実感は、大事なことだと思ったのと重なる気がする。
そう思えば、自分がすでに天国にいることを実感できる。

世界メシア教の信仰と出合ったとき、そのときが天国に戻ったときだったということだろう。
かなりすっきりできる感覚だ。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/2/21 20:58
イエスは、アラム語で神を語り、その後、ギリシア語で聖書であらわされ、
さらにラテン語でしたためられているそうだ。
宗教改革時代、15世紀、英語に訳された。
英訳したティンダルという人は、磔刑に処せられている。

当時、教科書に出てくるような有名な大王でも、読み書きができなかったのは
珍しいことではなかったようだ。
ましてギリシア語やラテン語のわかる人となると、なおさら少数になる。
つまり読み書きができるのは、僧侶が多く、聖書を読めるのも僧侶が多かった。
その僧侶ですら、聖書を読んだことがない人は少なくなかったという。

一般信者になると、天の父とキリストへの祈りしか知らなかったといって過言ではなかったであろう。

そうなると、聖書を読んだことがあるのは、法皇だけ。
法皇の言葉が、絶対力を持ったのだ。

聖書が英訳されると、聖書を読める人は増える。
法皇が自分勝手に解釈していたとしたら、バレてしまう。
そこまで悪質でなかったとしても、法皇の権威は低下する。
ティンダルが磔刑に処された背景には、こんな事情があったとされている。

現在、世界メシア教の信者は、今まで知らなかった明主様の聖言を読むことができている。
明主様の目的、真のご神業はそこまですごいものだったのかと知ることができた。
信仰をしてきてよかったと、今さらというか、今になって初めて、無理なく
心から、実感できている。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/2/20 23:35
もっと早く天国を受け入れたかったなぁ。
体の自由が利くうちに、天国生活を送りたかったなぁ。

誰だよ、浄霊、奉仕で天国に行けるなんて教えてくれたやつって。
主神様なくして天国なんてありえなかったではないか。
聖言には、そう書いてあるのに、これまで誰も教えてくれなかった。
教主様が初めて教えてくれた、天国生活の始め方は。

とボヤいてみたりする。

まぁ、今からできることをやっていこう。
それしかない。
返信5
c
childrenさん (7mg43frt)2020/8/14 22:44 (No.112008)
教祖の究極の目的は、神の愛を伝えること。
つまり、幹。

なぜ、神の愛を伝えることが幹なのか。
恐怖信仰に間違われるのが嫌なので、あまり言いたくないが。
やはり、最後の審判だ。

最後の審判は、あると思う。
その審判の分かれ道は、神に従えるかどうかだと思う。
いくら善行を重ねてきても、神に従えない人は、危ないと思う。
なぜなら、悪とは、神を認めないところから生まれる。
善とは、神を信じることから生まれるからだ。

人を救うのは、神しかいないと思う。
だからこそ、神は、教祖を地上に遣わしたと思うのだ。
返信
c
childrenさん (8xxl97s3)2023/12/31 10:35削除
今年も大みそかの日を迎えさせていただけた。
日々、いろいろなことがあった。
脚の痛みが続く中、真夏の炎天下をひたすら通勤した。
仕事のこと、人間関係のこと、お金のこと……日々の気苦労は
次々に降りかかってくる。
とはいえ、一年は無事に過ぎた。

ミクロでいえば、さまざまな浄化という悩み苦しみの連続だ。
しかしマクロでいえば、願いがかなった。
若い女性風に言うなら、ほんのちょっぴり願いがかなったの♡
というところだ。
そんな一年だった。

物事が思い通りになるのは、やっぱりうれしい。
新年の抱負も見つかった。

解決していない悩み事はもちろんあるけど、
とりあえず一年の感謝を記したい。
c
childrenさん (8wvvh8wb)2023/11/14 20:49削除
現当利益を示すことで神様の存在を知らせる。
教祖、明主様のご神業はそこからスタートしたといえるだろう。
現当利益、つまり奇跡に人は驚き、なくなりかけていた人生を
復活継続させられたところから、信仰生活に入ることが多かった。
小生なども、自身ではないが、親族の奇跡につながって信仰を始めている。

現在は、現当利益より、神の愛が中心だ。
神の愛は、なんとなくわかってきた。
本来、なくなっていたはずの人生だから、奇跡などなくてもすべてを
主神様に捧げることにも違和感がなくなってきた。
って、そんなにまじめな信者でもないんだが(ウハハ。

ま、小生の心の中では、そんな気持ちだということである。

ところが、奇跡時代の信者さんにはそう簡単に移行できないようである。
年齢的なこともあり、新しいことに移行するのは、容易ではない。
だから、奇跡を見せて、お導きさせていただくことへのこだわりがある。
小生だって、奇跡ほし~~~い気持ちは、ありあまるほどある。

神の愛時代の、信仰、お導き、他の信者さんはどのようにしていらっしゃるの
だろうか?
匿名さん (8x6p95ma)2023/11/5 11:45削除
参拝していたわけでもないので、いわば部外者のイチャモンだと考えてほしい。
11月度月並祭、真明さまの聖言、冒頭のあいさつ部分だ。
どうしても気になる、「ありがとう」の言葉。
どこか、違う気がして、すっきりしないものがある。

不満を述べるだけでは情けないので、代案を提示してみたくなった。
そこで教祖様である明主様はちょっと置いておいて、二代様、三代様は、
なんとおっしゃっていたのか、思い出してみた。
三代様が
なんとおっしゃっていたか、具体的な言葉は思い出せない。
しかし、「ありがとう」の言葉はなかったと記憶している。

二代様は、直接、お声をうかがったのは小生がまだ生まれていたかどうかも定かでないころだ。
ただ、たしか『たまのいずみ』、それ以外かもしれないが、文書にあった記述を浮かんだ。
 わざわざお座りの行をしてまで……
正確な文言ではないが、この記述から察せられるのは、
 参拝者の労をねぎらうとともに、ご神業が推進していることへの喜びの気持ちではなかったかと
いうことだ。

たどり着いたのは、
 頼もしく思う、主神様、明主様もお喜びのことと思われる、など、

これなら、すんなり受け取れるんだけどね、小生は。
c
childrenさん (8wvvh8wb)2023/11/3 07:38削除
11月度月並祭、真明様の聖言。
コーラスメシアがどこかの矯正施設に慰問されたそうだ。
最近のコーラスメシアは、小生のような音楽には無頓着な人間にも
感動を与えてくれている。
成長というか、伸長というか、感服させられる。

でもさ、コーラスメシアの素晴らしい音楽を聴くことができた矯正施設の
人たちはいいんだけど……。
小生はいまでも大川を訪れるたびに、ハレルヤ、ハレルヤと心の中で歌っておる。
小生の音痴をたびたび聴かされる大川の霊が気の毒になってきた。

気の毒ではあるが、大川は訪れるたびに、ステキになっている気がする。
シャッターを切る観光客の姿を見るたび、うれしくなる。
ステキな景色だから、シャッターを切るんだと思うからだ。

大川には気の毒でも、当分、機会があればハレルヤを歌い続けるぞ! と決めた。
そのとたん、異動があり、大川に行く機会がなくなった。
やっぱ、大川の霊が小生のハレルヤを聴きたくなくて、異動させたのかもな。
いいさ、小生は前向きに生きる。
新たな職場で飛躍する、大川の霊魂さんたちも飛躍していくことを祈る。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/7/3 21:23削除
都内東部を流れる、隅田川。
大川とも呼ばれ、近年はスカイツリーができ、全国各地、いや海外からも
多数の人が訪れている。

小生もたまに行くことがあるが、気分は重い。
なにせ先の大戦では多数の民間人が火にまかれ、大川でも多数の人々が亡くなったからだ。
以前、瑞雲会館で、このあたりで子ども時代から暮らしているという泊り客と話したことがある。
未信者さんだ。
 雨! 雨のように火の粉が降ってくる。
そんなこともあり、大川を渡るたびに、犠牲になった方々を思い出し、心が暗くなる。

明主様だって、幼少時代はいやというほど眺めた川だろう。

本日、大川を渡ろうとして思いついた。
 もう天国はできているようです。
 メシアの御神様と申し上げ、赦しをお受けください。
そういって、あとは心の中で、ハ~~レルヤ、ハ~レルヤ♪ とくり返しながら、渡り終えた。

気のせいか、大川が軽くなった気がした。
小生のハレルヤ♪を聴いて、「赦しをお受けします」と申し上げた霊がいるのかもしれないと思った。
小生のハレルヤ♪があまりに音痴なので、耳をふさいだ霊もいるかもしれない。
それでも、小生は歌おうと思う。
 ハ~レルヤ、ハ~レルヤ、ハ~レルヤ♪
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/1/17 23:03削除
ネット情報だが、
 紅白歌合戦に出場した歌手の藤井風氏、なんでもサイババに関係があるとかで
かれているそうだ。
意味不明だ。

サイババが超能力をうたっている人物であることくらいは知っているが、
なにか問題でもあるのだろうか?

思うに、超能力とか宗教とか、唯物思想の範疇におさまらないというだけで、
非難攻撃する連中がいるということではないだろうか。
単に、その連中の理解を超えているというだけで、否定してしまう。
既得権益にしがみついてしまう連中とどう違うというだろうか?

余談だが、藤井風という歌手。
小生はひょんなところから、昨年末に初めて知った。
若者たちには人気の的のようである。
韓流音楽は、もうちょっと上に世代で、若者たちはこの藤井風に集まっている。
正直なところ小生は、彼の魅力はよくわからなかったのだが……。

それはさておき、唯物論者にも困ったものだと思う。
もっと論理を立てて、どこに問題があるから、批判しているのだくらいの
知的活動をしてほしいものだな。
神様から離れると、脳内の活動も劣化してしまうのだろうか!?

有神論に対する知的批判なら、いくらでも来いって思うぜ。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/11/22 22:24削除
教祖、明主様の究極の仕事は、主神様の愛を伝えること。。。のはず。
ところが古い出版物を読んでいると、神に裁かれたという記述がいくつか見つかる。
 最高位にあるといってもいい国常立という神様を邪神呼ばわりした人の悲惨な末路、
 ほかにもあるが、ちと失念。

愛なのに、なぜ?
間違いは誰にでもあるのに、なぜ?
神様、おそろしいよ~~~と思ってしまう。

そこで、ちょっとだけ考えてみた。
 裁かれた例は、他教団での出来事。
 天国教団である教祖の教団では、改心、悔い改めさせるだけの力はあるから、例に挙げたような
 悲惨なことは起こらない。
しかし、例ほどではないにせよ、幾分かの悲惨さを残した例は本教団にもある。
 ???

たどり着いた結論は、悲惨な裁きもやっぱり愛だったということだ。
 悲惨に裁かれたことで、本人にとっても、本人に追随した人、邪神呼ばわりをされた側にとっても、
 誤りは誤りだと証明することになる。 
 その後に起きるかもしれない誤りの事態は回避されることになるので、本人らにとっては罪を犯す
 ことを未然に防げるわけだ。

ここで注意したいのは、この論理を利用して殺戮を繰り広げた宗教教団もあるということ。
この教団の過ちの最大の要因は、人間が裁きをy行ったことだ。
神でもない人間が、まるで神様であるかのように裁いてしまった。
そこが悲劇の始まりだったように考えている。
間違っても、人が人を裁くことだけはしたくないなぁ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/9 09:25
神は愛だから、すべては、その人がよくなるために与えてくださっている。
この考えに基づいて、浄化の捉え方を変えた。

これまでは、乗り越えられなければ浄化とはいえない。
そう考えて、乗り越えたとき初めて、「ありがとうございます」と奉告していた。
しかし、浄化を戴いたこと、それ自体が神の愛だ。
だから、嫌だな、試練だなと思うことに出くわした時点で、「ありがとうございます」
と奉告してみた。
すると結果がよい。

具体的には、ちょっとした発言で虎の尾を踏んでしまった。
小生には悪意はまったくなかったのだが、相手はそうとらなかった。
誤解を解くのも、めんどくさいなと思っていた。
そこで、まず「浄化だと捉えます、主神様、ありがとうございます」と心の中で奉告した。

翌日、気まずい感じは少しあったものの、すぐさま相手は普段通りに接してきた。
下手に弁解やご機嫌取りをしなくて、本当によかった。
返信8
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/26 23:05 (No.176935)
宗教の目的って何だろう。
完全な人間を作ること?
人間の願いを叶えてもらうこと?
困ったときに助けてもらうこと?

いずれも、小生は身に覚えが有り余るほどある。
だがしかし……。

思うに、神を讃えるためにあるのではないかと思い始めている。
まだ何もでいきていないのが、そこをめざしてみたくなっている。
返信
c
childrenさん (8xxl97s3)2023/12/5 21:52削除
まもなく60歳になろうとしている御仁。
 われらはIT化に巻き込まれずになんとか仕事にありつける
 ギリギリの世代。
 もう少しあとに生まれたら、どうなっていたか。

PCとかITとか、AIとか、小生も日々振り回されている。
これらに巻き込まれずに生活の道を得られることがラッキーだったと言う。

人はいろいろだなと感じた。
小生などは、なんとか追いつこうとして来る日も来る日も格闘している。
悲しいと思いつつ、扱えないことはもっと悲しいのである。

できる範囲で生きていけることに感謝する人。
もっと上、新しさについていこうと悪戦苦闘している人。
小生は、後者なんだよな。
すでに何台PCをオシャカにしてしまったことか。

信仰なくして人生をまっとうできそうなことに感謝している人。
信仰を得ようとして悪戦苦闘している人。
小生は、後者なんだよな。
すでに何回、苦難に立たされてきたことか。

小生は、欲張りなんだろうか?
はたまた、足るを知って満足し、感謝できないのだろうか?
匿名さん (8xxl97s3)2023/11/24 07:23削除
年末を控えて、さすがに忙しいね。
小生にはありがたいことだが、感謝と疲労は同時進行するようだ。
やっぱり疲れて、なかなか書き込みができないね。
ま、ムリなくやっていこうと考えている。
1週間ほど、在宅勤務の許可が出たので、助かった。
通勤がないぶん、多少の時間的余裕ができたわけだ。

というわけで、さっそくユーチューブサーフィンしていたら、
明主様教団の一つである他教団の11月度月並祭のものがあった。
結論から言うと、やっぱり世界メシア教の一員になれたことに感謝した。
自画自賛になるが、ま、いいよな。
世界メシア教の信者であることを看板にしたサイトなんだからさっ。

どこに優位性を感じたかというと、なんといっても
 進歩性があるんだよね。

他教団の月並祭を見ていると、旧態依然、30,40年前の信仰を思い出した。
昔、こんなことをやっていたなぁって思った。

世の中には、変わったほうがいいことと、変わらないほうがいいことはあるが、
何一つ変わらないのはちょっと……。

教祖である明主様も、「常に、新しく、新しく」とおっしゃっていたように記憶している。
 新しくなれないってことは、神様から叡智をいただけないことではないか。
小生は、主の光教団時代から、そう考えていた。
 「虫の息」と揶揄され、それを肯定してもいたのだが、
 他教団に比べての優位性を、そこに感じていた。

新規性と進歩性は、特許取得にも最重要要素である。
新規性と進歩性がない教団って、明主様を本当に信奉しているのかなと思ってしまう。
ごめん、これは言い過ぎた。ハンセーする。
でも、本心なんだよね。
そして、小生個人も、生きるための、最重要課題にしていることなんだよね。
c
childrenさん (8wl4lqt0)2023/11/1 06:52削除
パソコンが新しくなった。
メモリがお幅に増えた。

固まることもないし、突然、シャットダウンしてしまうこともない。
作業はスムーズに進み、ストレスもないので、八つ当たりすることもない。
人間関係を崩さずにすむ。

改善しようといろいろ工夫してみたが、容量が広がっただけで、すぐさま
いろいろな問題が解決した。

土壌、つまり世界が広がる。
この世で最も広いのは、主神さまの世界。
主神様のいらっしゃる天国に行っただけで、いろいろな問題が解決するって
ことなのだと考えた。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/9/26 21:06削除
《神ってる》
最近、若者の間で流行っている言葉だそうだ。
なんでも、アニメ界では、神をテーマにした作品が増えているとのことだ。
そんなところから生まれた言葉のようだ。

 神を、あるいは神を信じる人を揶揄する意味なのか?
 そんなこともないみたい。

小生、さすがにアニメのことはまったく知らない。
大急ぎでネット検索したところでは、どうやら、人間業を超えている出来事に
ついて言われる言葉のようだ。

つべこべ言ってもしょうがない。
まずは、「神」という言葉を意識する人が増えていることは
喜ばしいことだと捉えることにした。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/6 19:48
神の吐く息は、私たちが吸う息。
神の吸う息は、私たちが吐いた息。

春季大祭での、教主様のご教導だ。

神と一体化して生きる。
神の一部として生きる。

恐れ多いことだが、心して生きよう。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/4 20:52
天国に暮らすとはどういうことだろう。
今年の春季大祭は、この問いに答えてくれたように思う。

自分の呼吸は自分のものだと思い込んでいた。
この自分のものと思い込んでいた呼吸を、神様の呼吸とすることなのだ。
小生は、これから吐く息、吸う息を神様の呼吸としていただくように
心がけていこうと決めた。

天国に暮らす、このことを具体的にどう実践していけばいいか
わからなかったけど、手掛かりをいただけたと思う。

天国が夢物語でも、遠い未来のことでもなく、
今、この場にあることを実感させていただけた。
いつもながら、手ごたえ満杯の大祭だった。

教主様についていって心からよかったと実感している。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/3/28 21:29
智恵子抄。
高村智恵子の、最後の作品が素晴らしい。
色の使い方に、目を奪われるほどだ。

この作品は、智恵子が精神を冒されてからのものだ。
智恵子は、親や夫の期待を背負いながら、本当の自分を出せずにいたようだ。
努力家であり、自分を責め立てても、期待に応えようとしていたようだ。
そのせいか、健常なときの作品は、評価が低かったという。
とりわけ夫、光太郎は、色の使い方がまずいと言っていたようだ。

精神を冒されたことで、期待に応えようとする責務から解放され、自由になった。
自由になったときに、本来の智恵子が表現できるようになったのだろう。

なんとも悲しい話であるが、あの素晴らしい作品は残った。
智恵子ほどの能力があるかどうかは別にして、
生きながら、すべてを主神様に返上することによって、
本来の働きができるようになりたいなと思った。
返信7
c
childrenさん (7lm5csat)2020/7/24 23:27 (No.105864)
どの宗教の信者も、自分の宗教が最高だと思っている。
だから争いが起こる。
よく、批判的に言われている。

しかし、最高とは思えない宗教を、神を信仰していることは不幸だと思う。
受験だって、就職だって、最高だと思えるところで学べる、働けるほうがいいに決まっている。
したがって、「自分の宗教が最高だ」と思っていることが問題なのではなく、
最高だと思える宗教に出合っても、最高だと気づかないことが問題なのではないかと考える。

小生の経験でも、自分が最高と思える宗教を信仰してきた。
もちろん、疑問点はいくつもあった。
しかし、教団自体が大きく変化を遂げ、新たな信仰に、自然に出合えた。
その結果、疑問点はことごとくと言えるほど解消した。
常に最高を求めていけることは幸せなことだと実感している。
返信
c
childrenさん (8xxl97s3)2023/12/2 22:29削除
新穀感謝祭、12月度、真明様の聖言を、ユーチューブで
拝聴した。

率直に言って、「いいな」と思った。
素直に、「いいな」と思った。
あのくらい率直に言ってもいいんじゃないのかなと思う。

日ごろ、我々は、恐怖信仰だと言われるのが嫌で、あんまり率直には言わない。
心の中では、思っているんだけどね。
口に出しては、まして未信者さんには絶対言わない。

でも真明様が、あそこまで率直に言ってくだされば、我々も言いやすい。
ま、世間の感触を見ながら、だけどね。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/6/26 21:44削除
戦闘的なイメージがあるのは、日本人の小生からすると、
ムスリムだ。
しかし、きくところによると、メフメト、ムハンマドの教えには
そんなことはないとのことだ。
ただ、土着の民間信仰のなかに、敵対するものは潰せという考えがある。

教線が拡大するにつれて、この土着信仰の考えを取り入れるようになった結果、
他教を敵対視する雰囲気ができてしまったのかもしれない。
実際、学校の歴史で習ったところによれば、ジズヤといって、
ムスリム国家は、ジズヤという人頭税を払えば、他宗教の人も受け入れていたという。
他教排斥は、メフメト固有の教えではないということに信ぴょう性を感じたしだいだ。

キリスト教だって、戦闘的になるのは、ローマで市民権を得、国教化されてからのことのようだ。
宗教が、世俗的な権力と結びついたとき、開祖の教えは変更されていくのかもしれない。
くれぐれも注意していきたいと自戒する。

日本の天皇家を宗教と見るかどうかという問題はあるが、世俗的な政治から常に一線を画してきた。
政治に色気を出した天皇もいたが、そのとき世の中は乱れている。

世俗が変わらないとなんともならないが、その接触方法は重々検討することが大事だなと
思った。

話しが横道にそれたが、
一神教が戦闘的じゃないということがわかったのは、喜ばしいかぎりだ。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/5/31 21:17削除
職場の女性たちが話していた。
 一神教は戦争ばかりしているから、嫌。
多神教のほうが平和的でいいわぁ。
歴史を振り返ってみても、たしかにそのとおりだ。

話しを振られた小生は、答えた。
 本当に神様がそうさせているのかなぁ?
 人間たちが、自分たちの都合のいいように、神様の御名を利用している
 だけだと思うんだよな。
女性たちは、少し、安心したような表情になった。

この女性たちは、もちろん世界メシア教のことを知らない。
 一神教、すなわち主神様、すべてを作った存在だから、他の宗教をやっつけろなんて
 言わないと思うぜ。
そこまで言うと、女性たちは、ますます安心した表情になった。
話しは、そこで区切りとなった。

小生は、心の中で反芻していた。
 これまでのどの宗教戦争も、すべての作り主である主神様がなさったことだ。
 だから、一神教の戦争の歴史も、主神様の手の内でなされたことだ。
ここまで言ったら、女性たちは、どんな顔になるかなと想像していた。
そして、小生は、また心の中で答えを導き出した。
 主神様は、本心からの永遠の願いと、一時的に許されたことがある。
 戦争も一時的に許されたことだから、必要が去ればなくなる。
 われら主神様の信仰者は、なるべく永遠の願いに使っていただけるようにしていくのがミッション。
 一時的な行為に使われることだってあるだろうが、それは一時的であり、いつかは終わるのだと
 いう認識だけは失わないようにしていきたいな。

永遠の願いから、目をそらさないようにしていこうと自分に言い聞かせた。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/4/16 22:11削除
スペインが南米の人を虐殺したり、西欧人がアフリカ人を奴隷にしたり。
その内容は、目に余るものがある。
なぜ、こんなことができたのか。
その理由は、キリスト教以外の人は野蛮人であり、悪だという思想があったのでは
ないかと思う。

もっといえば、イエスがユダヤ人にあんな目に遭わされたのも、ユダヤ人から
みれば、ユダヤの戒律に反する者は悪だという思想があったのではないだろうか。
悪だから、何をしてもいい。

小生は、自分の信仰が最高だと思っている。
気をつけたいのは、最高の信仰をしていないからといって、悪ではないということだ。
最高の信仰とは、すべてを網羅したものだからだ。

しかし、神の御名をかさに着て、自分の欲望を遂げようとするのは怖い。
思えば、尾行・盗聴・盗撮も、例のケータイ検査問題も、
自分たちは神様の意図の下でやっている。
そのためなら、他人の利益を害してもいい。
そうとでも思っていなければ、あんなことはできないもんな。

本当に、神様の意図なのかどうか、今一度、神様にお委ねしてみてはどうだろうか。

神様の名を利用して、自分の意図を実現しようとしているのではないだろうか。
他人事ではない、自戒していきたい。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/3/16 21:39削除
不祥事を含めて宗教の話題がにぎやかになっているせいで、
他教団の様子が見えてくるようになった。
共通していえるのは、若者信者が少ないということだ。
世代間継承、新規入信者ともに若者の宗教離れが進んでいるということだろう。
わが世界メシア教とて、決して例外ではないと思う。

理由はいろいろあるだろうが、若者信者ばかりに目が行き過ぎていることがあると思う。
若者が溶け込みやすい環境、若者に受けそうな環境づくりにばかり目が行っているように思う。
その一つは、高齢信者が宗教の喜びを身に着けていないことがあると思う。
追えば逃げるのは世の常だ。
この際、若者視線を捨てるのも一手かもしれないと思う。
そこまでしなくても、若者向けにするために、高齢信者が視野に入っていないのは疑問だ。

長年、信仰を続けてきた高齢信者が本当に信仰のありがたみを実感していれば、自然に
若者だって、信仰に関心を持つようになると思う。
もっといえば、世代間継承がうまくいかない原因は、高齢世代が自分と同じような思いを
子どもたちにはさせたくないと思っているのではないかとさえ思う。
無意識のうちに。

ないものねだりをする前に、今あるものを大切にしていく。
そこから道が開けてくるのはよくあることだ。
今いる高齢信者の信仰向上に取り組んでいくことが、若者の信仰離れを回避する方法の一つではないかと
思うのだが……。
急がば回れ。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/3/14 20:35削除
いろいろな意味で宗教団体が話題になっている。
他宗教のことを批判するようで恐縮だが、率直な感想であって、他意はないので
甘受いただきたい。

これらの宗教を見ていると、やっぱり信仰がないと思う。
それが悲しいし、寂しい。

わが世界メシア教は、創造主であり、この世のすべてを支配されている神様を信仰している。
だから最高だと思っているが、それ以外の信仰だってあっていいと思っている。
目に見えないものを信じる同士として、一種の仲間意識を勝手に感じていた。
それなのに、宗教団体を名乗りながら、信仰がない。
なんとも……。

気を取り直して、もっと広く、細かく世間に目を向けてみると、信仰のある人もいる。
近所の神社とか、寺社とかを大事にしている人もいる。
もちろん、これらの信仰とわが世界メシア教とはかなり違っている。
しかし、せっかく信仰をしているなら、やっぱり信仰をしなければ意味がないと思う。
形だけとかじゃなく、つきあいとかじゃもったいないと思う。

学校の勉強とちがい、宗教をいかに究めたとしても、社会的には通用しない。
それだからこそ、真の意味でしっかり身に着けておかないと意味がないと思う。
実質的な学びというような意味だけどな。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/3/13 20:41削除
万一、教主様が本心から主神様に向かっていなかったらどうするんだ。
 向かっているように見せかけているだけだったら、どうするんだ。
 人の心の中までは、誰も見通せないぜ。
こんな声が聞こえてこないでもない。

言うまでも、いずれの心配も100%否定することはできない。
ここで、言いたいのは、我らは目に見えないものを信じる信仰者なのである。
唯物科学を極めているのではなく、信仰をしているのである。

これらの心配は横に置いて、信じるという行為を前面に打ち出している。
そのうえで、どうしても信じられない事態に遭遇すれば、その時点で判断することにしている。
そのまえに、見せかけだけで、主神様の前で、
 私が教主です。
と言っている人を、主神様がいつまでも放置するとはどうしても思えない。
これは信仰体験から言えることであるが、主神様は、そこまで甘くない。
本当に怖い。
心の奥の奥まで見透かされているなというのは、つとに体験していることなのである。

だから、自らを律するようになる。
誰かに、こうしたらいいとか、こうすればよくなるとか、こうせよとか、言われて律するわけではないのである。
自ら律するしかなくなるからである。
小生の場合だがな。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/3/12 10:10削除
誰でも、自分の信じる宗教が最高だと思っている。
小生ももちろん、そうだ。
明主様を信じる教団もいくつかあるが、そのなかでも最高だと思っている。
最高だと思っているから、信じるのである。
明主様の教えが最高だと思うし、そのなかでもわが世界メシア教が最高だと信じている。

理由はたくさんあるが、その一つは、まず教主様を戴けていることだ。
これは大きい。
なにせ、自分は教主だと言って主神様に向かえる存在がいるのだ。
小生の出身母体である主の光教団時代も、明主様の教えを信奉し、信仰はしてきた。
教団幹部だとして主神様に向かえる存在もいたし、小生自身も信者だと言って主神様に向かっていた、
つもりだ。

しかし、
自分が教主だと言って、主神様に向かえる存在はいなかった。
いなければいないでしかたないとは思うが、いるといないとでは大きく違うと思う。
なぜなら、主神様は、教主には教主に、教団幹部には幹部に、信者には信者に必要なことしか
伝えないと思うからだ。

最高だと考える明主様教団のなかでも、世界メシア教が最高だと思う、理由の一つだ。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/3/3 23:59
いい加減に目を覚ましたらどうですか。
ついに、浄霊まで廃止したそうじゃないか。
こんなことを言ってくる、かつての信仰仲間がいる。

失礼なやつだ。
こんなやつらと縁が切れたことが、なによりありがたい。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/2/16 22:57
自分の宗教が最高だと思っているから、その宗教を信仰している。
と同時に、宗教は世間の批判を浴びやすい。
そういうとき、最高だと思いつつ、自分の宗教を卑下してしまう気持ちも起こりがちだ。
むやみに反論したりするのは、宗教者らしくないという価値観からでもあろうが、
自分の罪の意識からということもありうる。

批判を罪の贖罪のように考えるのだ。
小生も、いつしかその考えに包まれていた気がする。
元々自分を攻撃する者には、徹底的に戦い、相手を潰していたのだが、
それは神様のみ心に叶わないように思われるようになったからだ。
正しいことはいつか認められるので、それまでは隠忍自重、わるくなくても
ごめんなさいと言ってやりすごしたり。

先週、職場で誤解を受けたのだが、そのときも小生が謝ってやりすごそう。
そのほうが事を荒立てずにすむとも考えていた。
神様はすべてをわかっているはずだし。

で、神様に奉告した。
いつもなら、小生が引くことで、心の平安はもどってきた。
しかし、先週はいつまでも収まらない。
それどころか、事を荒立てないようにしようとしている小生が、ひどくズルいように思えてくる。
そこで、いいや、事を荒立ててもいい。
神様のみ心のまま、相手は神様を知らなくても、すでに天国にいる存在だ。
天国の裁きが下ることを願うことにした。
もちろん、その結果、小生が裁かれることだってありうる。
それでもいい、天国の価値観で裁いていただこうと、すべてをお委ねしますと申し上げた。

意外なことに、とくに事が荒立つこともなく、むしろ以前より友好的に交流してきたのだ。
なにがあったのか知らないが、天国とは正しいことが正しいで通る世界ではないかと思った。
宗教者だからといって、泣き寝入りばかりしていると思ったら大間違いだ。
返信10
c
childrenさん (7lgdqouw)2020/7/20 22:35 (No.104620)
問題があると、原因探しを始める。
同じ原因があっても、同じ問題が起こるとは限らないのに。

だから小生は、原因探しはなるべく早めに止めて、
目標確認をすることにしている。
その目的を達成するのに、クリアしなければならない問題がどうかを確認するのだ。
さほど影響のない問題なら、放置。
原因探しのエネルギーを、目標に向かって進むことに使うことにしている。

ある歴史研究者の説だ。
古代新羅は、日本に助けを求め、裏切り、謝罪する。この繰り返しで、日本から派兵した
軍の大将を、その次の派兵では大将の夫人を毒殺することまであったそうだ。
また、日本に追随することを約束した直後、日本に大地震が起こると、今度は日本への
侵略を開始するという具合だ。

当時の日本の為政者は、その原因を探し、改めさせようとするのを早々に諦め、
日本の体制づくりに注力することにした。
その結果、できたのが、冠位十二階であり、十七条憲法だったという説だ。
真偽は定かではないが、いい先例だと思っている。
原因探しは早々にやめ、自分づくりに励んだほうが利口だと思う。
返信
c
childrenさん (8wvvh8wb)2023/11/13 23:18削除
よけいなお世話の続きなんだが、他教団のこととはいえ、
世間からはとかく、宗教全体がうさん臭く思われる傾向が否めない。
という点は、まったくの部外者ともいえないので、よけいなお世話の部分は
ご容赦いただきたい。

献金は本来、神様に捧げたものだから、教団の一存で返金できるものではない。
それなのに返金に向かって100億円もの金額を供託されようとしている。
これには何か理由がなければならないと考える。

報道されているとおり、強引な献金活動があったとしたら、
神様だってうれしくないと思う。
いやだけど、お金を捧げますなんて思いがあれば、人間だってうれしくないのだから、
神様ならなおさらだと思う。

神様の、この不快な思いが、旧統一教会問題を長引かせていると考えられなくない。

わが教祖によれば、これからは言魂と想念の時代だという。
想念の穢れがあることが赦されない時代になったともいえる。
献金だけじゃないけど、神様にはとりわけ心から仕えていきたいと願うね。
c
childrenさん (8x6p95ma)2023/11/12 21:47削除
よけいなお世話なのは重々承知しているが、旧統一教会問題。
100億円を供託するとか言っているが、なかなか反発が強いようだ。
小生が思うに、あの弁護士の主張はほぼ完ぺきなので、裁判官といえども
そう簡単に論理を崩すことはできないのではないか。
だから裁判になれば、旧統一教会側の主張が認められるのではないかと見ている
のだが……。

主神様のなさることは、裁判なんてどうにもしてしまう、と思う。
したがって主神様のお気持ちしだいでは、どう転ぶかはわからない。

今までも書いてきたことだが、やっぱり旧統一教会に「神」の存在が感じられない。
献金はすべて、主神様に捧げたもの。
それなのに、100億円も供託していいのだろうか。
神様のお金を100億円も、教団存続のために使っていいのだろうか?
それが神様の意図かもしれないので、一概に否定はできない。

本当に、神様の意図ならいいのだが、
だけど、教団が勝手に、神様のお金を供託していたとしたら……。
旧統一教会問題が長引いて、いつまでも滞っている原因は、
そのあたりにあるように思ったりしないこともない。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/1/31 22:02削除
ギリシャ文化の代名詞的存在といっていいのがパルテノン神殿。
わがメシア会館にも、その面影が見いだせるコルビジュエ建築の神殿だ。
そのパルテノン神殿は、ペルシャ戦争で勝利した直後、ギリシャの最盛期に
完成したそうだ。

まもなくアテネとスパルタの対立から起こったペロポネソス戦争で、アテネが
負け、ギリシャ世界は崩壊へと向かっていく。

一般社会でも家を建てると不幸が起こると言われることがよくある。
その他の歴史を見ても、偉大な建築物を建てたあと、崩壊へと向かった歴史は
枚挙にいとまないほどだ。
歴史とも伝説ともいえないほど昔のメソポタミアだって、バベルの塔によって、
崩壊したとされる。

そして元わが教団である世界救世教の歴史だって、聖地建設とともに分裂、分散したことは否めない。
なぜだろう?
建築はいいことだから、神様だってお慶びになっているはずだと思うのに???

聖言に基づいて考えてみると、
 その建物建築に当たって不浄な金銭が用いられたこと、
 使用に当たって不浄な目的に用いられたこと
が思い当たる。
 そうなんだろうなと思うことはいっぱいある。

ほかに、これは小生の想像だが……
 建造物が完成したということは、そこまでで一応の仕事が完成したということではないだろか。
巨大な建造物が完成するということは、それなりの仕事が完成し、それなりの成功を収めたという
ことでもああると思う。

人間は、浅はかなので、そこまでの成功に満足し、完成した建造物を前に立ち止まってしまいがち。

しかし、神様の仕事は常に進化している。
その建造物はすでに過去のものとして、次なる建設にすでにとりかかっているのかもしれない。
その意味でいえば、わが世界メシア教が聖地を離れたことは大いなる意義があることになる。
いつまでも過去の完成した聖地にしがみついて、ほれぼれしていたら、次なる建設への意欲が
減退してしまうもんな。

神様の建設作業は、まだまだ進んでいくということなんだろうな。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/1/19 22:09削除
コラボ問題は、赤い羽根募金にまで波及している。
赤い羽根募金には、旧教団時代の小生も、御用の一環として参加した記憶がある。
その組織に、不審な資金の流れがあると言われている。

コラボもそうだが、こうした不審な資金は、そう珍しいことではない。
ごく普通に活動している組織でも、企業でも、公的機関でも、政府にも、地方自治体にも、
宗教界にだって当然ある。
そうした不審な資金の流れには、意図的に疚しいことをしようとして行われることもあるだろうが、
多くはこのくらいはいい、当たり前のことだと考えて行われることのほうが圧倒的ではないだろうか。

某地方公共団体でアルバイトのようなことをした経験があるが、
「皆やっていることだからね」
と先輩職員が、耳元でささやいた。

まだ若かった小生は、そのときは意味がわからなかったが、今になればわかる。
その職員は、組合活動に熱心で、いわゆる筋金入りの左翼だ。
こうしてねん出した資金は、忘年会などの資金になるわけだが、
この件に関しては、左翼も右翼もかかわりなく連帯し、資金作りを行っていた。

こんな背景を知っている小生は、細かいお金のことをあれこれ言うのは、あまり賛成でもない。
多めに見てやれよという気持ちにもなる。
かといって、なくなるものなら、なくなってほしいという気持ちも、また本心としてある。

ま、時代なんだと思う。
これまで許されてきたことが許されなくなった時代なのだと思う。
こうした地位や立場になると、特権でも与えられたような気分になり、すべてが自分のものの
ように勘違いしがちだ。
地位や立場は、その職務を果たすためにあるもので、役得などは決してないと思っていたほうが
身のためになりそうだ。

幾度も言うが、世の中は、すべて主神様のものであるという認識がもっと広まっていけば、
こうした不審な資金の流れなどはなくなるんだと思う。
c
childrenさん (8482szl4)2022/5/12 13:47
今回のプロジェクトも、あと半月で無事、終了する。
当初どうなるかと思うほど、人が入れ替わった。
職場の人間関係が原因だった。
現在では、なんとか和やかな空気が流れるようになった。

人間関係がうまく行かなった最大の理由は、原因探しだったと考えている。
スキルの面でも、また能力的にも他を圧倒する人間が一人いた。
自分が優れているせいだろうが、他の人間のいたらなさが目に付くのだろう。
「これは、こうだ」
「こうしないから、ダメなんだ」
「キミは、この点で、皆の足を引っ張っている」

彼の指摘は一々、正しい。
第三者として聞いている分には、たしかにその通りだと頷く。

その昔、イギリス女王さまのエピソードを聞いたことがある。
ある会合で、西洋風の晩餐に不慣れな日本人が、手洗い用の水を飲んでしまった。
その場の空気は、凍り付いた。
すかさず女王様は、自分も手洗い用の水を飲んだ。

このエピソードから、さすが大英帝国の女王様。
客に恥をかかせない、最高のマナーを自ら披露したと絶賛されたという。

知識や正邪で判断し、他人の非をあげつらう風潮が強まっている。
正邪や知識も大事だが、そのことにばかり目に行き過ぎると、他が見えなくなる。
思わぬ、落とし穴が待ち受けていることも多い。
品性の卑しさを人前でさらしてしまってはたまらない。

わが職場の高スキル高能力の人間は、ようやく周囲の蔑みの目に気づいたらしく、
おとなしくしている。
職場の空気が和やかになったのは、そのおかげでもあるが、
彼のスキルを習得する機会が減ったというマイナス面もある。
彼に品性があったら、彼も、周囲も、どれくらい得をしたかもしれないのが残念だ。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/4/2 22:10
神がいなければ、人間は平等じゃないし、民主主義もない。
この説にどんどん共感していく。

社会には、平等、平等、民主主義、民主主義とかなり偉そうに語る人が多い。
これらの人の頭のなかは、どういう論理構成しているのだろうと不思議になる。
論理なんて関係ない、いいことだからと頭から思い込んでいるだけかもしれない。
単なるイメージを信仰しているようなものだ。
こういう人たちは、自分がイメージを信仰しているためか、その信仰を他者にも押し付ける。

同じような現象は、宗教界にもあり、明主様信仰団体のなかにもあるというか、ほとんどだ。
何を隠そう、小生も世界メシア教に出合うまで、その一人だったと今さらながら実感する。
浄霊力がどうとか、奉仕がどうとか、いつも参拝してるとか、自分はできないとか。
それらを含めて、全部イメージにすぎなかったと実感する。

世界メシア教に出合った今、教祖の聖言がどんどん現実のものだと思えてくる。
論理構成もできるし、聖言にあることがそのまま起こるようになった。

人がどんな信仰をしてるかの差はたしかにあると思う。
しかし、その差は、神様から見たら、ないに等しいさなのだろう。
神様のいない信者が、どんなに熱心に信仰をしたとしても、
神様から見たら、等しく神様のいない信仰にしかすぎないということだろう。
だからこそ、まずは主神様を認め、聖言を正しく拝読していくしかないと考える。
c
childrenさん (85dmj2x1)2022/3/13 20:40
360度人事評価という言葉がある。
さまざまな面から人を評価していくということである。
いい面だけならいいが、マイナス面の評価もある。
そのせいかどうかは知らないが、人の欠点を探していく風潮が強まって
いる気がしないでもない。

組織において、能力主義にすると、人が人を評価せざるをえなくなるのは
理解できるが、いまいち納得できない。
あらさがしを始めるからだ。
ライバルを蹴落とすとき、自分が責任逃れをするためなど、さまざまな事情から
他人のあらを探すこともよく目にする。

それはそれで、行為の結果は自分にかえってくるわけだから、好きにしたらいい。
しかし、このあらさがしを始めると、人間の行動力が減退しやすいのが困る。
失敗しないように、人の機嫌を損ねないようにということに意識が集中し、荒野をめざさなくなる。
こんな社会だと、進歩がしにくい。

失敗してもいい、どんどん荒野をめざせる社会であってほしい。
その際の基準は、もちろん主神様。
主神様に奉告することを前提に行動をしていく。

神様のものである社会や人間を、人間のものだと勘違いした結果は、結局、自分たちの
自由を狭め、首を絞めていくということでしかないようで、怖い。
c
childrenさん (85dmj2x1)2021/12/12 21:46
ユーチューブの霊界系番組がおもしろかった。
相談者が、言う。
 自分は会社の上司とうまく行かず、早く上司が異動、左遷されるように
 神仏に祈ってきた。
 しかし、結局、自分がリストラされてしまった。

こういうことって、あるある! なんだよな。
思わず吹き出してしまった。
小生もかつて幾度も同じような祈りを捧げてきた。
しかし、結局、相談者のようになってしまうことがほとんどだった。
だから、そういう祈りは止めてしまった。

この相談者に対して、回答者は言った。
 それでも、何かのエネルギーが動いたことはまちがいないから、祈りは
 通じたと思う。
 思うようにはならなかったけど、別のところから道が開けてくると思う。

ちなみに、小生は現在、同様な思いに駆られたとき、こんなふうに祈っている。
 自分では、こう思う。 この思いを主神様にお委ねいたします。
その結果、思い通りになるときばかりとまでは言わないが、
自分がリストラされるようなことは、めっきり減っている。

いつまでたっても天国人らしくなりきれない小生ではある。
c
childrenさん (85dmj2x1)2021/12/8 23:17
皇族の結婚問題が騒がれている。
小生も、あの結婚相手の言動は、どうしても共感できない。
これまでお世話になっていながら、思い通りにならないと非難をする。
この感覚が、感情をさかなでするのだ。

しかし、おそらく、当人は大まじめに非難をしているのだろう。
これまで、他人の援助で、自分の目的を遂げてきたのだろうし、
援助してくれる人はいい人で、援助をしてくれない人は悪い人という感覚で生きてきたのだろう。
自分だけ特別扱いされていることに、なんらの疑問も、感謝もない。

この態度は、われら信仰者にもあるんじゃないだろうか。
神様の援助があって当たり前で、神様がなぜ援助してくれているのかまでは考えたこともない。
もちろん神様の援助がなければ一日たりとも生きていけないのはたしかなんだけど。

問題なのは、思い通りにならないときに、神様を否定してしまう傾向があることだ。
もしかしたら神様はいないのではないか、
神様に見放されたのではないだろうか。
これって、あの皇族の結婚相手と同じ態度ではないかと思えないでもない。
人の振り見て我が振り直せ。
気をつけようと思う。
まちがっても、彼のような態度だけはとらないようにしようと自戒する。
c
childrenさん (85dmj2x1)2021/12/7 21:34
仏教では、輪廻転生、生まれかわりを教える。
厳密には、シャカはそんなことは言っていないという説もあるようだが。

神道では、コップの水に例えて、説明する。
今の人生は、コップに汲み上げられた水のようなもの。
他界すれば、コップの水は、大きなプールのなかに注ぎ込まれる。
したがって、どの水が元のコップの水かはわからない。
プール全体がきれいなら、再び、コップに汲み上げられたときには、きれいな水でいられるというわけだ。

どんなにやってもうまくいかないとき、
それでも小生は信仰を続ける。
そんなときの思いは、自分の水がきれいでなくても、プール全体の水がきれいなら、
それでいい。
それが主神様のご意図なら、受け入れよう。
そんなことを考えたりしている。

教主様のご教導をいただいた現在、
小生のなんとなく思っていたことは、さほど間違っていなかったのではないかと考えている。
自分がうまくいかなくても、どこかで、だれかがうまく行っている。
それでいいんだ。

正直なところ、うまく行かないときの、自分への慰めでもあったりして、そう
達観できているわけでもない。
でも、この思いを、これからも意識していきたいとは願っている。
なぜなら、そう思うと、なんとなく心が元気になるんだよなぁ。
返信10
c
childrenさん (7ldaw2wu)2020/7/18 18:52 (No.103737)
現在の通説は、その一つ前の時代には少数説だった。
よく耳にする言葉だ。

自然農法も、医薬を用いない健康法も、現在では少数説だ。
しかし、いずれは、それもそう遠くないうちに、多数説になると見越している。
そのときには、現在の方法を推進している人々は、非難を浴びるのではないかと心配する。
すべてのことは神様のなさることだから、いたずらに非難することは、どこか違ってるな、
と思う。

ただ、強制的に押し付けた場合は、そう簡単ではない。
現在でも、医薬を避けようとすると、「虐待」との言葉で強制するケースがあることは
しばしば耳にする。
医学による被害者がいることも事実である。その被害を避けようとする人を責め立て、
強制を強いることには、どうしても頷けないものがある。

ビジネスなどで実施されている、特区制度。
少数説を排除していたら、未来の多数説を否定してしまうことになりかねない。
現在の多数説を尊重しつつ、少数説も生かせる制度があってほしいと願ってやまない。
返信
c
childrenさん (8x6p95ma)2023/11/8 18:35削除
50代後半のシングル女性。
能や歌舞伎、クラシックやオペラ、宝塚に軽音楽まで、暇さえあれば鑑賞して
いる。
近頃は、やたらと浄瑠璃の話題を持ち出している。
人材が集まらないので、女性を導入しようとしているとかなんとか、気になる様子だ。

おそらく、これらの鑑賞のどれかに出かけた際のことのようだ。
 おばあさんのケータイが鳴りだして、止め方を知らなかったらしくて、台無しになったのよ。
ケータイ、鳴り出した、台無し。
小生にとっても気になる話題だ。

彼女に話を振った。
 もし、ケータイの音が鳴らないように設定されるかどうか、主催者が確認して、
 その確認をクリアしないと会場に入れないとしたら、どうする?
彼女は、眉をしかめた。
 絶対、いや。 
 気持ち悪いよ、それ!

小生も常々、自分が変なのではないかと思っていたので、正常だよと言われたようで、
意を強くしたしだいだ。

常識は時代によって変わるのは、事実だ。
だからといって、人のものを強制的に取り上げて検査することが常識とされる時代がくるとは思えない。
教団の常識は、社会の非常識。
なんてことにならないように、広く世間に目を向けてほしい。
c
childrenさん (85dmj2x1)2021/12/14 23:26
キリスト者は、メシアはイエスだと信じている。
正確には、再臨のキリストだ。

この再臨のキリスト、イエスがどんな姿で登場するかまでは
そう詳しく書かれていないのではないだろうか。
羊のような頭をして、白い服を着ているとは聞いたことがあるが、
それ以上の記述があるかどうかは知らないが。

問題なのは、偽キリストが登場するという記述だ。
たしかに、自分がイエスの再臨だと称する人の話は何人か聞いたことがある。
それはそれで、その本人は本気でそう思っているのだから、他人がとやかく
言う問題ではないと思う。

ただし、我らは、明主様が再臨のキリストであり、メシアだと信じている。
偽キリストが出てくるという記述に基づいて、われらのメシアまで偽物扱い
されるのは嫌だなと思っている。

もっとメシアについての記述はないのだろうか?
隠している記述があるなら、全部出してほしい。
メシアがアジア人で、日ノ本に再臨するとかっていう記述がきっとあるにちがいない、
なんてことを考えてしまう。
キリスト者のみなさん、もっともっと隠れている聖書を探してくださいな、お願い。
返信2
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/19 20:02 (No.198729)
教主って何だろう。
世界救世教の規約では、教祖を受け継ぐ人となっているようだ。

よほど早期に離脱した教団のことはわからないのだが、小生の知る限りでは、
明主様を信仰する教団のうち、教主がいるのは、わが世界メシア教ともう一つだ。
もう一つのほうは、その教団の信者ですら顔も名前もよく知らない人が多いという
摩訶不思議な存在だ。

わが世界メシア教には、名実ともに担ってくださる教主様がいる。
つまり主神様に対して、自分が教主として祈っているのは、2人? いや、小生は
ただお一人ではないかと思っている。
 他教団の教主のことはあまり口を出したくないので、ここまでにしておこう。

もし、教主であるとして祈られたら、主神様、明主様もそれなりに応えてくださると思う。
メシアのご神業を教えるだろうし、万一、間違っていたら厳しく処すると思う。

教主様批判をする人たちは、自分たちの言い分が本当に正当だと思うなら、
まず主神様に祈ってみるのが信仰ではないだろうか。

信者に向かって、陰でコソコソ告げ口をするのではなくて。
返信
c
childrenさん (8wl4lqt0)2023/11/4 09:17削除
小生は主の光出身なので、当然の成り行きとして教主様とともに信仰する
ことになった。
成り行きとはいえ、そこに疑念があるとすれば、ともに歩む信仰は選ばなかった
ことだろう。

主の光のなかにも、教主様と袂を分かった専従者や信者はいるから、そこに
ついて行けばいいわけだ。
彼らの言動にまったく関心がなかったばかりではなく、教主様のいらっしゃる教団と
いうことへの魅力があったからだ。
つまり、小生の側の見方でいえば、教主様とともに信仰をしていく道を、主体的にかつ
積極的に選んだわけである。

では、選んだ道にまったく迷いがなかったかといえば、そうことはない。
その前に、なぜ教主様とともに歩む信仰を選んだかの理由を記さないといけないだろうな。

小生の出身である主の光教団は、教主様とは縁の薄い組織だった。
小生は、創始者である中村総長を信奉していたが、1点だけ心酔できなかったのは、
教主様に対して批判的な想いがあるように感じていたことだ。
当時の専従者のなかには、直接、教主様を蔑む言葉を発した人もいた。
大勢の前ではなく、個人的な会話の場ではあったが、天邪鬼の小生は、その蔑む言葉を
聞いた瞬間から、教主様への想いが湧きだしていた。

だから、教主様のいらっしゃる信仰への憧れにも近い想いがあった。
教主様のいらっしゃらない信仰に、特段の不満を感じていたわけではないが、
とにかく教主様のいらっしゃる教団への憧れがしだいに強くなっていったことだけは
明確に記憶している。

それが、主体的に、かつ積極的に教主様とともに歩む信仰を選んだ理由である。
c
childrenさん (8wvvh8wb)2023/11/2 22:22削除
明治天皇の玄孫であり、憲法学者でもあり、古事記研究家でもある
竹田恒泰氏によれば、
 天皇は、天皇個人で評価するのではなく、天皇という全体像で見ていく。
とのことなのだそうだ。

小生はこれまで、代々の教主様をほめたたえる話を聞いたとき、頭というか
心というか、とにかくその辺に靄が立ち込めてしまっていた。
ほめたたえるものだけでなく、悪評を聞いたときも、同様だ。
なぜなんだろう?
小生はあまのじゃくで、人の話にはチャチャを入れたく性格なんだろうなと
思っていた。

ところが、天皇を全体として見ていくということを聞いたとき、一気に
靄が晴れた気がした。
自分を責める気持ちも消えた。

どの教主様が何をした、どんな功績があった、いや教団をおとしめた、教祖の教えを
変えたなど、一切、関係なかったのだ。
明主様を初代とする教主という立場、現在のところ4代目だが、5代、6代、7代と
続く教主という全員で、時々の教主という立場を担ってくださっているんだ!

この考えが正しいかどうかはわからないが、小生としてはモヤモヤが晴れて気分爽快だ。

そう、教主様は、今目に見えている教主様だけではない。
明主様も、2代様も、3代様も、そして5代様も、6代様もそのあとの教主様も一体となって
現在の教主様のお仕事を担っていらっしゃるんだ。
この考え、間違ってないと思うんだがな、どうだろう。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/5/15 22:35削除
教会の一角に掲げられている教主様のお写真。
小生は、このお写真を拝見するとき、不思議な安堵感に満たされる。
ある意味では、大祭時に直接、教主様を拝見するとき以上の安堵感である。

先々週だったか、ある明主様信仰者の掲示板で、元わが教団の教主様について
投稿されている記事を読んだ。
この教団では、いつのまにか5代教主が就任されているのだ。
しかし、多くの信徒が5代教主の存在さえ知らない。
 教主は、包括法人の教主。
 包括法人は、持ち株会社のような立場なので、そこに所属する信者はいない。
 だから、信者が教主の存在を知らないのは当たり前。
こんな内容な投稿だった。

ここと同様、非公認の掲示板なので、教団の正式な見解かどうかは不明だ。
仮に正式な見解だとしたら、???

信者は、各教団の信者であって、教主様と直接つながることはできないということになる。
もちろん小生だって、教団がなければ教主様を知ることはなかった。
だからといって、教団を介してしか教主様とつながることはできないのか!?
小生のように、教主様はわれら信者の教主様だと思うのは、間違っているのか!?
とんでもない思い上がりであり、無礼なことをしていたのか!?

大いに考えたのだが、答えは出なかった。
ただ、教団の役目の一つに、教主と信者をつなぐことがあるのではないだろうか。
この部分を怠っている教団に所属していないことに感謝した。

教会に掲げられた教主様のお写真を拝見したときの安堵感は、なくなってほしくない。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/4/13 22:24削除
世界メシア教では現在、大祭、機関誌などを通じて、
現教主様と、教祖である明主様の血のつながりを強調している。
そのことについてとくに問題は感じないのだが、小生としては
正直なところ、血のつながりを第一義的には捉えられていない。
理由としては、この先、万一、血のつながりが途切れた場合、われらは
帰すうに迷うことになりかねないという不安があるからかもしれない。

では小生が、教主様であることに求める第一義は、何か。
それは、自分が教主であると主神様に言えるかどうかだ。

20年くらい前になるのだろうか、3つに分裂して教団が10年後、1つにまとまる
ことが決まったということを聞いたころだ。
たしか地上天国祭のとき、現在の教主様が、主の光教団の本部に訪れ、
 教主の任をお受けしてしますと申し上げました。(概意)
とお話しされた。
このときに受けた鮮烈な印象が忘れられないのだ。

そんなことをいいんだろうか。
主神様に対して、そんなこと言って、万一、何かが起こったとき、
どうするんだろうか。
小生は、そんなことを考えていた。
 教主の任をお受けする。
この言葉の重みをズシリとズシリと感じて震えるほどだった。
主神様に、この言葉を言える方が、教主様だ。
漠然とだが、そんな思いを感じていた。

だから、あえて血のつながりの部分には、目をそらしてきた。
しかし、教主様を追い出した形の教団が、名前の異なる人をあえて教主にし、
名前まで変えて、教祖との血のつながりがあるかのような外見を整えているのだ。
そのことを思うと、教祖である明主様の血のつながりの重要性を考えさせられてしまうのだ。
皮肉なことだが、他教団の行動を見て、逆に血のつながりの重要性を思い起こされてしまう結果になったわけだ。

やっぱり、血のつながりなのだろうか?
哺乳類は、血のつながりを感知する能力を持たされていないはずなのにな。
主神様が、そのようにおつくりになったはずなのにな。
やっぱり結論は出そうもない。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/4/12 20:50削除
現在、明主様教団のうち、「  」付きも含めて、
小生が知る限り、教主様を戴いているのは、わが世界メシア教のほかに
一つしかない。
その一つが、「  」付きの教主を戴いている。
なぜ「   」付きかというと、その教団の信徒の大半が教主の存在を知らないからだ。

その「   」付きの教主様は、わが世界メシア教の教主様と同じ、岡田姓を名乗っている
ようだ。
小生は、いわゆる通称名だと思っていたが、一概に断定はできないらしい。
なぜ通称名かといえば、この「   」付きの教主様は、数年前まで別の姓を名乗っており、
おそらく生まれたときからの戸籍名だと思われる。

小生は別に、この「   」付きの教主様を批判しようという気はさらさらない。
いずれは、主神様がご判断するところだと思うからだ。
宗教食
というわけで、ここに記したのは、宗教職にあるものの名前について考えたいからだ。

現在、わが日本国の戸籍法では、名前を変えるのはまず不可能に近いといっていい。
個人的事情を除いて、つまり喜ばしくない事情での戸籍名変更を除いて、唯一の例外ともいえるのが、
僧侶だ。

仏教僧は、僧侶になったとき、僧侶としての名前をいただく。
この僧侶としての名前は、戸籍上も通用するのである。
正々堂々と、喜ばしい原因で、戸籍名を変えることができるのである。

この制度が、仏教以外の宗教名でも通用するのかどうかは定かではない。
「   」付きの教主様は、この制度を利用して、戸籍名を変えたのだろうか?
それとも、何らかの養子縁組をして名前を変えたのだろうか?
はたまた、現在も通称名のままなのだろうか?

そんなことを考えてみた。
c
childrenさん (8ncp4ynd)2023/3/3 21:00削除
遺言は、要式行為といって、必要事項を書類にしなければ正式な効力は発生しない。
知る限り、二代様を後継者にするというのは、口頭での遺言だけで、
文書はないようだ。

我らは、二代様を明主様の後継者として認めているので、口頭だけでも
「遺言はあった」ということになる。
しかし、二代様を後継者と認めたく人々にとっては、
「遺言はなかった」と言いたくなるだろう。

明主様は、どうして不完全な遺言にしたのだろう。
もちろん、霊界を信じる我らにすれば、何の問題もない。
ただ世間的に、法律的には、非のうちどころ満載の遺言ということになる。
これをもって「不完全」と言ったにすぎない。

想像するに、明主様の怖さを感じる。
つまり、それまで立派な信仰者で、厚い信仰を口にしていた人たちが、いざ自分が姿を
消したら、どうするか。
そのことを、自覚させるために、不完全な遺言にとどめたのかなぁ、と思ったりする。
だとしたら、怖いよ。
自分の信仰心がどの程度のものだったか、突き付けられるわけだもんな。

ま、勝手な邪推にすぎないんだけどな。
c
childrenさん (85dmj2x1)2023/2/25 20:36削除
明主様がご遺言されていたことは、最近になって知った。
どうやら遺言書があるわけではなく、口頭での遺言だった。
ご昇天直前、二代様に直接お伝えになったようだ。

これまで聞いてきたのは、
 明主様は後継者を定めなかった
というもの。
遺言があるとなると、矛盾する。
誰かが、意図的になかったことにしたか。
文書がないので、なかったことにするのはそう難しいことではない。

はたまた、二代様あるいは、その側近たちが嘘をついているのか。
遺言などなかったのに、あることにした。
どれが正しいかは、その場にいたわけではないので、判断は難しい。

ただ、信仰者として、神様を祈ってきたものとして、ない遺言を、「ある」という
勇気は出ないように思う。
神様怖いし、明主様だって怖いし、とても嘘をつく気にはならない。
二代様だって、教主になられる前は、信者だったわけで、そんな大胆なことができるとは思えない。
信仰がなければ、別だが。
したがって、やっぱり二代様を教主後継者にという遺言はあったと信じるほうを選択した。

だとしたら、なぜ、遺言はなかったということが信者の間で通説になってしまったのか?
これが問題だよな。
二代様、あるいはその側近が嘘をついたと考えたのだろうか。
そんな恐ろしい発想が浮かぶというのは、その人たちには信仰がなかったということではないのかな
と思ってしまうんだよな。
自分がいつも、神様や明主様にウソをついているから、他人も同じことをしているだろうと決めて
しまうのは、ありがちなことだ。
かなり意地悪な見方だが、そうなってしまうんだよね。

前述したように、小生は「ある」という立場を選択した。
もちろん、間違っていることだってありうる。
しかし、その場合も含めて、主神様にお委ねしている。
もし、間違っていたら、何らかの形で教えてくださると信じている。
なぜなら、いつも、いつだって、そうだからだ。
信じるとは、偶然が重なっていくうちに、当たり前になった心の状態なのだから。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/17 12:05
神聖と世俗。
教主の役目は、神聖を担うこと。
教団の役目は、世俗を担うこと。

教主様だって、世俗意識が皆無では役目を果たせない。
教団もしかりで、神聖意識が皆無だと宗教組織の役目は果たせない。
だから、どこまでも基本としての、役割なんだが、
基本を忘れたら、発展形は乱れてしまう、と思う。

組織を担う教団職員は、教えを説き、信徒を引っ張った過去がある。
それも、まだ絶対力を持ったメシアの降誕がない時代、あるいは隠していた時代は、
しかたのないことだったかもしれない。

ただ、すでにメシアの降誕が表に出た現在、職員が教えを説くことは
いかがなものか。
一人の信仰者同士として、信仰を語る範囲にとどめるべきなのではないかと
思う。

なぜなら、我らは明主様の信徒であって、職員の信徒ではない。
職員カラーには染まるのは心外だ。
やはり教主の役割を担った方に下される主神様のみ心。
そこにつながっていたい。
その点でも、わが世界メシア教は明主様教団のうち、唯一、
完成された組織体制がある教団だと考えている。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/7/7 20:39
契約というのは、実行できなかった場合、その契約は破棄できる。
人間の場合、思いもよらぬ事態に遭遇することもある。
その結果、契約内容を守れないこともある。

そもそも神と人間は、能力も環境も非常に異なる。
その異なりすぎる両者の間に契約など、土台無理な話でもあろう。

だから、やはり神と人間。
愛なり、情なり、なんらかの家族的許し合いの下で成立するものではないかと
考える。

神と人間、神と教主、教主と人間、
それぞれの関係が家族的許し合いの下でこそ成立するものだと思う。

となれば、やはり教主は、血統継承が理想だという結論になるのだが。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/7/6 23:45
西欧社会では、命がないところを助けられたのは、神との契約によると
考えている面がある。
旧約聖書に基づくのだろうと思うが、自由や人権などもあたかも契約によって
与えられているというところがある。

だから、契約を守らなかったら、命も自由も人権もなくなるという考えだ。
もちろん神のほうでも、契約を破ることはない。

その点、東洋はあいまいだ。
神はその人物に全面信頼しているとでもいわんばかりだ。
もちろん東洋人は、そこに応えている面があるのだが。

だから選挙という物理的な方歩では、万一、愚昧なトップが就任したら、
行動も愚昧になる危険性があると思う。
契約という意識もないので、神との約束もあいまいになりがち。

そう考えると、東洋ではやはり血統継承のほうが無難だと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/7/5 21:38
世界の歴史を見ると、選挙で王位についた例もあるが、
血統による例もある。

前者は、ローマのカエサル、神聖ローマのハプスブルグなどだ。
血統は、アジアに多く、戦闘によって王位に就いたあと、血統によることが多い。

宗教界も同じで、ローマカソリックや、日本の仏教各派も選挙ではないが、
内部の話し合いによると思われる。
少なくとも、血統による継承は少ない。

わが世界メシア教は、血統継承だ。
選挙のほうが近代的のように思われがちだが、詳細に見ていくと、むしろ逆のように
思われる。血統継承は、きわめて少ない。

思うに、選挙で選ぶ場合は、ヨーロッパなど契約観念の確立した社会でないと
難しいように思う。
神との契約だ。

アジアのように契約の習慣の浅い社会だと、簡単に破ろうとしがち。
契約への尊信の気持ちも小さい。
だから、いつ、なんどき、王位を奪取しようとする動きが起こるかもしれないし、
神よりも人間を優先しかねないと思う。
安定性を求めるなら、やはり血統継承のほうが理想だと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/7/4 21:22
血統継承の場合、心配されるのは、暗愚なトップが誕生することだ。
信仰的にいえば、信者に曇りが多くなれば、暗愚なトップを戴いてしまうことになる。
相応の理であり、いわゆる浄化でもある。

そうならないためには、やはり信者が主神様とつねにつながっていくしかないと思う。
自分の心が主神様とつながっていれば、主神様が暗愚なトップを許されるはずはない。
しぜんな形で交代させていただけると思う。

無信仰者なら、そんなこといってるからだまされる。
改善するには、行動しろ!
となるだろう。

このあたりは、信仰経験なんだよね。
主神様に申し上げたことは、なんらかの形で必ず、応えていただける。
これまでそうだったのだ。
信じようと、信じまいと、自ら体験を重ねたことって強い。

したがって小生は、聖旨を主神様に向かって捧げている。
「教主様を唯一絶対無二の」
もし間違っていたら、主神様が、明主様が放っておくはないと思うからだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/7/3 21:24
血統による継承を、あたかも前近代的だとでもいわんばかりの
声がある。

現在までわが教団は、教祖であり初代教主である明主様の夫人、娘、そして
現在の男系孫にあたる教主へと引き継がれている。
現教主様を継承することが決まっている次期教主様も、男系継承だ。

現在の状態で何らの問題もないのだから、このまま男系継承されてほしいと
願っている。
ただ、皇室で問題になっているように、男系が途絶えた場合だ。

教祖で初代教主様の考え方としては、養子もさほど肯定されてはいないようだ。
だから、無理やり、何か何でも男系継承にこだわる必要はないと思う。
可能なかぎり男系継承を維持し、絶えそうなときは女系でも、赤の他人でもいいと思う。

ところで世界を見ると、契約感覚が確立している国は、血筋でなくてもなんとかやっている。
しかし、契約感覚が確立していない国では、やはり家族感覚のある血統継続のほうが
無難なように思う。

末端信者の分際ではおこがましい気もしたが、血統継続を非難する声に対して、あえて
小生なりの考えをまとめてみた。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/24 12:41
明主様は、教祖であり、初代の教主だった。
以後は、初代教主の聖業を継承しつつ、現在の4代教主様を
戴いている。

初代教主様がなさったことはすべて、時々の教主様もできるということだ。

しばしば非難されるのが、二代教主様が自筆のご神体に変えたことだ。
ご神体をどのようにするかは、時々の教主様に委ねられた事項だとしたら、
何の問題もない行為になる。

ところが、初代教主様は、「私の書いたものをご神体に」と仰っている。
「私の書いたもの」でなかったことが初代教主様に反抗する行為だというのだろう。

それが本当に、初代教主様への反抗であるかどうかを判断するのは、誰だろう。
小生は、初代教主様だと思う。
本当に初代教主様の意向に反しているかどうか、許容できないものかどうかを判断した
のが、信者である教団運営者だったところに問題があったのではないだろうか。

実際、現在は初代教主様がご揮毫された書体をご神体に戴いている。
それを判断したのは、現在の教主様だ。

ご神体をどのようにするのかは、教祖ではなく教主の意向に委ねられていると考えていいのだと思う。
本当に間違えていれば、初代教主であり、教祖である明主様が放置したりしないと思うからだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/18 14:20
もっと言えば、初代教主の明主様時代に、すでに始まっていたかもしれない。
ただ、表面化しにくかっただけで。

というのは、いくどか、繰り返しているセリフがあるからだ。
「私の言う通りにしなかったから」
「私の言う通りにする人はいない」などなど。

言う通りにしていたなら、こんなセリフを仰るとは思えないからだ。

世界救世(メシヤ)教創立前だろうが、
 入信献金は、3000円に決まっていた。ところが、なかには
 5000円の教会もあったそうだ。

もちろん、私腹を肥やすためではないと思うのだが、各教会が勝手に明主様が
決めたことを変えていた。
ほかにも、悪気ではないにしても、それぞれの事情で明主様の意向と異なることを
勝手にやっていた様子が窺えるのだ。

そんなことの積み重ねが、二代様の時代に一気に噴出し、教主様批判となって
表面化したのではないかと推察する。
そして現在まで続いている。
各自の事情を正当化しようとするのはいいとしても、そのために迷惑を被るのは教主様。
今一度、「明主様の仰る通り」にしているかどうか見直さないとなぁ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/15 14:39
いわば豪族が治めていた恰好だったのを、世界救世(メシヤ)教創立とともに、
教祖明主様は初代教主に就任された。

以来、初代教主の聖業は、各教主に継承されていく。
そこに初代教主の意向に、なんらかの逸脱があれば、初代教主が放っておくだろうか。
 死後も霊界から活動していく
とまで、初代教主である明主様は仰ってるのだ。

初代は教祖だったため、逆らう人はおらず、もっぱら幹部同士の内紛にとどまった。
ところが初代がご昇天し、人間の目に触れなくなってから、幹部同士は教主様にまで
内紛の火の手を広げた。

貴族や豪族が天皇の地位を奪うことはなかったように、幹部も教主の地位を奪うことは
なかった。
もっぱら、教主をいないと同然の存在にしようとした。
そのために、教主批判、誹謗中傷が苛烈になるのが、二代教主様の時代からだ。

現在の教主様批判、あることないこと、ないことないこと、目に余るのだが、これも
その一環として行われているのだろう。

初代教主、明主様がしっかりご覧になっている前で、誹謗中傷が行われているのだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/5/28 23:36
ありがちなのが、明主様の聖言を、あたかも自分の考えのように
話す専従者や信者。
これは、どうにも理解に苦しむ。

明主様は、たしかに主神様から直接になんらかの言葉を賜ったのだと思う。
なぜなら断言しているからだ。
それ以外、専従者も、信者も、ただ明主様の聖言を信じているにすぎない。
主神様から、直接、教えられたわけではないのだから。

自画自賛だが、わが世界メシア教には、こんな専従者も信者も、まずいない。
なんといっても教主様ご自身が、
 「~~~ではないでしょうか」
という言い方をしている。

明主様以外は、明主様を信じているにすぎない立場であることを確認している
言い方だと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/5/23 22:07
問題なのは、君主が暗愚だった場合だ。
内政はもちろんだが、貶めたい人々にとっても、
複数の人より、一人のほうが手玉にとりやすい。

聖言によれば、民がそれなりなら、それなりの君主。
要するに、信者次第ということ。
しっかり主神様を信仰していこうと改めて思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/5/19 18:25
君主制のほうが、民主主義は発展する。
こんな研究があるそうだ。
まぁ、安定した君主制があってこそだとは思うが。

そういえば、世界にさきがけて一般人の権利が認められたのは、
イギリス。
マグナカルタに始まって、清教徒革命、名誉革命、権利章典など、大英帝国として
世界に君臨した君主がいて、確立されていく。

それも、血塗られた観が比較的少ないのも印象的だ。
これは、君主が存在していることで、民衆の心理が安定しやすかったのかもしれないと
思ったりする。

わが教団も、教祖という教主がいたころは、比較的安定していた。
その後、教主という存在はあったが、相対化していくにつれて、眉をひそめる
騒動が起こっている。
専従者を含めた信者の心理が不安定になっていったのではないかと
思ったりする。

この世に主神様が君臨してくれていることと同じように、
組織にはトップの上に君臨するトップがいることがもたらすメリットに
目を向けていってほしいと思う。
ちなみに、この研究は、フランスで進んでいるそうだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/5/18 23:16
何かのトップになるというのは想像以上に重責ではないだろうか。
維新のときの孝明天皇。
ご存じのとおり、開国反対派。
攘夷だった。

世の中が動いていくにつれて、人生を閉じた。
天然痘だと言われているが、他殺説もある。
世の中のかじ取りを間違えると、その時点で生命まで閉じてしまうのだ。

教主の座も同じだろう、いや、それ以上なんだろうな。
信者の信仰を背負うわけだから。
もちろん、その他の役職者、信者だって、その役割なりの責任を担っているのだろうが。

やはり神様にどこまでつながっていられるか。
それしかないと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/5/15 20:49
なんとなくだが、君主制のほうが古く、共和制のほうが新しいイメージがある。
ところが、実は逆。
ローマは共和制からスタートし、帝政に変わる。
フランスもいったん、ブルボン朝を倒して共和制になるが、結局はナポレオン帝政に
なった。
現在は、共和制だが。

わが日本も、最初は豪族による共和制だったが、やがて大和朝廷になる。

宗教教団にも同じことがいるのではないかと思うようになってきた。
というのは、教主様を戴いていることも安心感をひしひしと感じるのだ。
理由があるのかないのか、そこまではわからないけど、ただ安心感がズシッと
堅固なのだ。
肩の荷を下ろしたという感じかな。

教祖明主様の聖業を継ぐものとしての教主。
教主という立場で神に迎える存在がいてくださることが無性にありがたく感じる
今日この頃なのだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/5/1 21:00
ひょんなことから聖地月並祭に参拝した。
主の光出身の小生は、どちらかといえば教主様とは縁の薄い信者だった。

20年ほど前、たしか裁判で3教団が10年後に統合することに決まったという
話を聞いたころだった。
教主様が、主の光教団のご神前に登場し、
「ずいぶん、近いですね」
と、おっしゃった。
救世会館や、箱根の会場とは比べものにならないほど、主の光の会場は小さい。
単に物理的な距離が近いという感想を述べられたのだろうが、小生は
馬鹿にしてるのかなと思った。
ま、僻みだろうがな。
これが教主様として、現教主様との初めての対面だった。

月並祭では、教主様は祭主としての役目だけを担い、お話はない。
ほとんどが後ろ姿なのだが、その後姿を拝見しているうち、涙がこぼれそうになった。
この小さな会場のご神前に、教主様がいらっしゃる。
教主様をいただいていることのありがたみをいまさらながら実感した。
みなしごが、親に出合ったような安心感とぬくもりを感じるのだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/22 22:53
小生は、組織としては、護持委員会が正しかったと考えている。
現在の主の光教団、世界メシア教の受け皿となった教団だ。
さすがは、当時の総長、教団組織としてのトップを戴いていただけのことはあると思う。
奇しくも、今回の騒動時も、3教団をまとめる組織のトップである管長は、
主の光が担っていた。

考えるに、主神様のご意図は、組織運営については、やはりそのトップに下されるものでは
ないだろうか。

主の光にただ一つ欠けていたのは、教主様への信仰だと思う。
当時のトップ、総長から直接に聞いたことはないが、主の光に属していた専従者からは
ずいぶんと教主様への無礼な発言が飛び交っていたのを記憶している。

教主様軽視は、主の光だけではなかったようだ。
他の2教団でも、表向きは別にして、陰ではかなり軽視する風潮が進んでいたようだ。
主神のご意図は、ご聖業については教主様に、教団運営については組織のトップに
下るものではないかと、以前から考えているのだが。
なんとなく裏付けされているように思えてならない。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/21 20:43
管長、総長、理事長……教団トップとはなんだろう。
組織を運営するための役職だと思う。

教団トップは、あくまでも組織運営がメイン業務。
これまでは、この教団トップが、教えの部分にまで口出ししてきた観が否めない。

地方の教会、布教所では、そのトップが教祖のお教えを伝えた。
しょうがない部分もあるんだろうが、これが混乱の元凶だったように思える。

もちろん自分の体験のある初期地方トップが、自身の体験を語ることは理解できる。
しかし一元化後、体験のないトップが語りだした。
語らないわけにもいかなかったんだろうが、本来、会得もしていない教祖の教えを
もっともらしく語らないといけないところに無理があったように思う。

おかげさまで現在の世界メシア教は、教団組織の役職員がもっともらしくみ教えを
語らないですむようになった。
このように無理のない体制が実現したのは、教主は教祖のご聖業を継承していけばいい。
教団組織専従者は、教主の教導に基づいて、教団運営に参画していけばいい。
この体制があることが大きいと思う。
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