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c
childrenさん (7mylnxf4)2020/8/27 21:16 (No.115511)
信仰を前進させることができない元わが教団の他教団。
そのせいか、ひたすらわが教団への批判に血道を上げるしかないようだ。
なぜ、このようなことが起こるのか。

答えは、簡単。
信仰とは、神から与えられるものだからだ。

社長には、社長の祈りがあり、社員の祈りとは異なる。
同じように、教主には教主の祈りがあり、信者の祈りとは異なる。
元を含めて、教主として祈りを捧げられるのは、教主様ただ、お一方だけ。
教主としての祈りに、神は教主としての祈りに応えてくださった結果だと思うのである。

かつて中村総長は、総長として神に祈りを捧げていたから、教団運営を間違えずにすんだのと思う。
今回の教団分裂のときの、組織としての最高責任者の地位にあったのは、主の光の仲泊氏だ。
最高責任者としての祈りを捧げていたからこそ、教主様を戴けたのだろう。

あっ、失敬。
元わが教団には、もうお一方、教主がいらしたのだった。
教主として、神に祈りを捧げていたなら、いつか同じところにたどり着くだろう。
教主としての祈りを捧げていれば、の話だが。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/10/7 22:07
元仲間だった教団の秋季大祭を、ユーチューブで拝見した。
それなりに立派なことを言ってはいるが、白々しさは否めない。
尾行・盗聴・盗撮などという反社会的行為を容認しているということが
あるので、立派なことを言えば言うほど白々しく感じてしまう。

反社会的行為。一度ならず2度までも、行っているのだ。
その口から「聖地の光」などという言葉が出てくるのだ。
島根県の島は、今でもわが国の領土だ!
って言いたくなる。

小生の心が狭いのだろうか。
彼らだって、改心しているかもしれないのに、
やっぱり白々しい。
心から悔い改めてくれれば、許せるかも。
しかし、神様はそう簡単に悔い改めることを赦さないかもしれない。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/10/1 19:10
いまさらながらだが、元教団の人たちがひどく遅れているように感じる。
40年前、50年前と少しも違っていない。
昔だったら考えられないような、愛国思想を堂々と公言する政治家が
あれほどの票を集めた、ネットの人気ならなおさらだ。
正しいことが正しいといえる範囲がこれだけ広がったことの証拠だと思う。

それなのに、元教団の人たちときたら……。

こんなことを思うのも、思い上がりなんだろうか。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/8 21:09
祖霊大祭では、教主様作詞の「別れの曲」が披露された。
ここで、断っておきたいのは、教主様と真明様の仲を壊そうなんて気は
微塵もないこと。これ、心からの本心だ。

そのうえで、やっぱり教主様、うまい。
詞に、香りがある感じがする。 
小生が教主様世代に近いせいかもしれないんだが。

先日、作詞作曲も、生業にする演奏家の話を聞いた。
 今の歌にはまったく興味がない。
 詞が、日記みたいでつまらないから。
これ、小生も常々感じていたところなのだ。
 日本の昔、海外の曲は、歌詞が少ない。
 少ない言葉に思いを込めるから感動するし、覚えられる。
 昔の歌は、皆が覚えて、歌っていた。
これも、その演奏家の発言だ。

この演奏家は50代。やはり、古臭い世代の感性なのだろうか?
小生は仲間を得たようで非常に嬉しかったのだが……。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/5 21:26
祖霊大祭に参拝した人は、こんなことも言った。
 いつまで、会場をじっと見つめていらして、感慨無量だった。

以前は、すべての行事が終わり、退場するとき、教主様は駆け寄る信者さんと
握手をしていた。
コロナ下で3密は自粛され、握手もなくなった。
そのころから、いつまでも会場をじっと見つめる教主様の姿を拝見するようになった。

日本生まれ、日本育ちの小生は、いまだに握手が苦手だ。
だから教主様に駆け寄ることはあっても、握手はしない。

外国人の表現手段は、口。
口を隠すことは、表現を禁じられたように思うらしくて、マスクは浸透しない。
しかし、日本人の表現手段は、目。
口なんかいくら隠しても、自分を表現できるから、平気でマスクをする、

外国人は知らないが、握手は、教主様と握手している人だけ。
今のようにじっと見つめてくださると、握手できなかった、しなかった信者さんでも
教主様の思いを感じるように思えるのだ。

コロナよ、ありがとうっと言ってみたりする。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/4 09:19
祖霊大祭に参拝した人が言う。
「どうして真明様ばっかり攻撃さるのかなぁ」

小生が言った。
「教主様のお話はわかりにくい。真明様は、わかりやすい。わからないから、けちのつけようがないわけで、
ある意味、真明様への誉め言葉と思っていいんじゃないかな」

彼は、納得した。
結局は、知的レベル、信仰レベルの問題だと思う。

単なる難癖か、価値のある指摘かの見分け方。
そこに、事実と論理があるかどうか、ではないかと思う。
「ケチ」をつけている人たちの言い分を、解析してみると、
必ず、事実と論理がないことがわかる。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/2 21:32
昨日は、祖霊大祭。
九州のヒルトンホテルだった。
福岡の活気ある空気は、今に始まったことではないが、
コロナ下でも、相変わらずの活気がみなぎっていると評判だ。

外出が思うにまかせない昨今、なぜか祖霊様に救われていただきたい
気持ちが強くなっている。
祖霊様は思いの世界なので、外出しなくていいし、
祖霊様がメシア降誕を実感してくだされば、祖霊様がわれわれ子孫への
救いのために働いてくださるようにも思う。

目に見える世界より、理解力が高いようにも思うのだが、どうだろ?
霊界には、コロナ禍もワクチンがどうとかもないんじゃないのかなぁ。
自由に動けるだろうな。
返信6
c
childrenさん (7lou4o6d)2020/7/26 20:36 (No.106337)
小生も、自分の宗教が最高だと思っている。
客観的基準に基づいてではない。どこまでも主観に基づく感覚なのだ。
主観とはいっても、無理なく、心から、自然にそう思っているのだ。

だからといって、状況証拠ともいえることはないでもない。
一々書くのは、長くなりすぎるので、機会があったら、ということにする。
したがって、今回は、一つだけ挙げておく。

教祖の書いたものによれば、
「想念しだい。喜べば、喜びごとが来る」
これを類推解釈すると、最高の神様だと思って、祈り、礼拝していると、
やはり最高の神様にお聞き届けいただけるのではないかと、いうこと。
万物をお作りになった主神様。

教主様も、「これからは想念の時代」とおっしゃっておられる。
最高の神様に、と思っているから、最高の宗教にご縁をいただけていると思う。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/10/6 13:10
わが世界メシア教を批判する2つの教団は、言う。
 聖地がない。

たしかに聖地はない。
かろうじて聖地内にある本部のご神殿は、元の本部事務所の一部を改装したものだ。

聖地は、明主様のお体だと言う。
だとしたら、わが世界メシア教には、明主様のお体はないということなのだろ。
でもさっ、明主様のみ心はどうだろう。
霊界からお働きになると仰った、明主様のみ心は、どこにあるのだろう。

反社会的手段を講じて手に入れた体に、み心は宿るだろうか?
宿らないと思う。

北方の島々だって、山陰沖にある島だって、武力を持って他国にあるが、
日本人に来いといっても、行かないもんな。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/24 22:23
最高だと思うから、信仰する。
最高なのに、どうして他教のことにあれこれケチをつけるのか。
そのへんの心理がわからない。

最高の神様なんだから、自分たちの神様だけを見つめて信仰していきたい。
もしかしたら、最高だと思っていないのに信仰している人がいるのかもしれない。
だから、常に他のことが気になる。
ケチをつけたくなる。

こういう行為も、メシアの御神様にお委ねするしかないのだろうな。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/23 22:24
神様、詐欺かな。 と思ったりしないでもない。
いつか救われると信じて、時間もお金も費やし、心までも捧げてきた。
なのに、メシアの救いに与れなかった。
だからといって神様のなさることに文句が言えないことくらい百も承知している。
でも、納得できない。
神は、正義なのだから。

この思いに、少しだけ、解答が出た気がする。

病気を治してもらいたい、病気を治してあげたい、
自然農法を普及したい、芸術に身を投じたい。
この目的は、今も取り上げられてはいない。
ただ、メシアの救いに与れなかった、使ってもらうことができなかっただけだ。

想念の時代。
明主様への信仰をどうとらえてきたか。
その想念に応じて、メシアの救いに与れたか、与れなかったかが、
表面化したということなのだろう。

今回、もれたとしても、想念が改まったとき、きっとメシアの救いに与れる。
そう信じていれば、納得できないこともない。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/22 13:41
もちろん邪推だ。
あえて根拠とするなら、小生のなかにも類似の思いがあることくらいだ。

メシアの救いに、現時点でもれたと考えている信者さんたち。
過去の信者さんも含めてだが、浄霊による奇跡を求めて、そこにとどまった人たち。
あるいは、浄霊の奇跡に驚嘆し、将来性に対して投資的な意味合いでの信仰にとどまった人たち。
漏れ聞こえるところによると、当初の奇跡は目を見張るものがあったようだが、そこにつながる
ことにより、いずれは成功者の栄誉に与れるのではないかと考えた信者がいてもおかしくはない。

小生だって、寄る年波には勝てず、浄霊をいただかずに一日も暮らせないと思ったことがある。
教団のことではあれこれ疑問を感じてはいたが、浄霊さえいただけるならいいや、という
感じで信仰を続けていた時代もあった。

この類の信者さんたちが、過去、現在のメシアの救いから漏れてしまったのではないかと考えたり
している。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/21 22:52
言うまでもなく、小生はわが世界メシア教を最高の教団だと考えている。
その視点で見ると、世界メシア教に縁をいただけなかった信者さんが気の毒でたまらない。
これは、嫌味ではなく、心底からの率直な思いだ。

同じように明主様を信仰し、時間もお金も使い奉仕してきた仲間なのに、
なぜ、世界メシア教にご縁をいただけなかったのか?
虚しい気持ちは否めない。

小生だって、たまたま縁があってメシアの救いに出合うことができた。
一歩間違えばいまだに、従来の信仰を続けていたわけである。
奉仕していれば、いつか救われると信じて……。

これからだって、どこかに分かれ道があったとして、そのときも最高の信仰に
縁を戴けるとはかぎらない。
いつか救われると信じたまま、徒労の日々を送っていることだってないとはいえない。
虚しすぎる。
他人事ではないのだ。
返信5
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/1/1 22:34 (No.156479)
昨年10月初めの終期大祭以来の瑞雲郷だった。
一年の初めは、聖地からスタートしたいからだ。

タクシーの運転手に客足を問うと、
「いやーよくないですよ」と苦い表情。
しかし「思ったほどには落ち込んでいない」とも言った。

たしかに例年に比べると、駅も街も、人は少ないが、
寂しい、閑散というイメージではなかった。
若いカップルが多かったせいか、勢いもあった。

ただ閉まっている商店が多すぎた。
イメージに負けて「どうせ、お客いない」と思うか、
「お客いなくても、店は開ければ何かあるかも」と考えるかの差だろうな。

そういえば、前述のタクシー運転手が、
「あれだけテレビで騒ぎたてられちゃねぇ」なんて、
マスコミへの不満を言いまくっていた。

情報は正しく得たいものだと思った。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/10/4 19:51
毎回書いているので、信ぴょう性を疑われそうなのが
悔しいのだが、今回はひときわ感動した。
会場にいるだけで、祝詞も御賛歌も、信者は声に出すことはない。
それなのに、それなのに、声に出していたときよりも感動がある。
不思議に思うだろが、事実だからしかたがない。

そもそもご神殿もない。
明主様時代の教団マークがあるだけ。
それなのに、それなのに、救世会館や箱根のご神殿にいたときよりも
感動した。
小生自身ですら信じられないのだが、事実だから受け入れるしかない。

身も心も軽くなって、本当に天国にいる気分で帰宅した。
一日たった今でも、天国気分は続いている。
願わくば、物質界の朗報も受け取りたいものだ。
あさましいのは重々承知したうえでの願いだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/10/3 22:49
大阪での秋季大祭から帰宅。
今年も無事に参拝させていただけたこと、感謝だ。
身も心も晴れ晴れとしている。

大阪での出来事。
若い女性2人が大声で盛り上がっていた。
東京弁で、まくし立てていたのだ。
周囲の大阪人たちが、辟易としていたことには気づかないようだ。

その昔、東京では、大阪人たちが大阪弁でまくし立てていた。
それで、嫌われた。
いつのまにか、逆の現象が起こってしまった。
自分では気づかないことも多い。
やはり主神様にすべてをお委ねするしかないと思った。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/30 21:03
今年も秋季大祭の日がやってくる。
台風が心配だったが、なんとか大丈夫そうだ。

笑いヨガというものがあるそうだ。
口を笑いの形にし、声を出して笑う。
楽しくなくても、おかしくなくても、する。

世界じゅうで流行っているそうだが、日本ではまだデパートや刑務所などで
実行されている例があるそうだ。
怒ったときなど、心をいやす効果があるという。

これも、広い意味で、想念の働きかもしれない。
心で怒り、顔で笑う。
なんだか、うそつきになったみたいな気がしないでもないが、
誰かを傷つけるわけではないので、やってみようと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/7/24 20:33
こんな流行歌があったのを思い出した。
 故なかにし礼さんの作詞だ。
   『愛を知ったから』
      

   『いつも二人』
      

 故なかにしさんの夫人、旧姓石田ゆりさんの声が澄んでいて、さわやか。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/17 08:56
今年の地上天国祭は、神戸だった。
会場のホテル隣接地にあるメリケン波止場公園に寄った。

潮の香りがしない。

熱海の海もそうだが、最近、潮の香りがしない。
神戸は、かろうじて、かすかに潮の香りはあったものの、
熱海ではまったくしなかった。
初島にも渡ってみたが、やっぱりしなかった。

潮の香りが消えて、どのくらい経つんだろうか。
若いころは、真夏のむせかえるかえるような濃い潮の香にそそのかされて、
ついつい出来心を掻き立てられて……なんてこともあったような。

少子化の原因は、経済的なことばかりではないのではないだろうか。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/16 09:58
その場に直で、身を置いたせいだろうか。
ネットで見たに過ぎないせいだろうか。
旧2教団の地上天国祭、理事長の話をネットで拝見した。

わずか2~3年のことで、ここまで差がつくものだろうか。
教主様を戴いている教団にいることを、つくづく有難いと感じた。

こういうことは言葉では言いづらいのだが、教主様を戴いている
わが世界メシア教の祭典には、やはり神様が感じられるのだ。

その昔、わが国では、天皇のいらっしゃる場所が都だった。
現在というか、現状というか、教主様のいらっしゃる場所が聖地
なのではないかと思ってしまう。

他の宗教や教団のことを批評するのは、教祖明主様のご意思に反するので、
言葉を選んでしまうが、事実として実感したしだいである。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/14 16:58
余談になるが、地上天国祭では、真明様の作詞・訳詞が各1曲、
披露された。

ら抜き、散文調、どうしても教主様の詞と比べてしまう。
内容は、大いに共感するところだったが、味わいが……。
教主様の言葉選び、間の使い方など、文学性があって味わい深い。

もっとも、今の若者による詩は、どうしてもこうなる傾向がある。
小生が時代から取り残されているということかもな。

とはいえ、訳詞は曲先だろうが、作詞のほうはおそらく詞先。
曲先がほとんどの風潮にあって、詞先の曲が誕生したのはありがたい。
曲先でもいいのだが、詞先の曲もあったほうが、なんらかの突破口になる
かもしれないじゃないか。
歌の業界も行き詰まりにあるようだから。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/13 12:11
地上天国祭、厳粛かつ熱気に包まれて催行された。
ますます地に根を張りつづけているように感じた。

3聖地など不動産を手にした、他の2教団。
世界メシア教は、教主様を戴いて、明主様の聖業を継承している。

もちろん聖地も教主様の全部そろっているにこしたことはないと思うが、
いずれか一つならやっぱり教主様がいてくださったほうがいい。
なにせ教えの主だからだ。
その時々、教主という座にしか与えられない主神様のみ心をいただけると思うからだ。

古い信者さんのなかには聖地への思いが強い人もいるようだが、
小生個人としては、ここは一旦、手放してよかったと考えている。
虫の息とまで揶揄された弱小の主の光教団と、
裸一貫で追い出されたいづのめと東方の光から信者で構成されているのだから、
聖地の運営コストに窮することになるのではないかと思うからである。

いつの日か教団の運営が充実し、聖地の運営ができるようになったとき、
聖地は再び、返ってくると思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/11 17:04
明主様は、年齢は関係ないと仰った。
本当だろうか。

年とともに、社会から必要とされなくなる不安。
この不安を抱えている人は多い。

そんなことを考えながら、地上天国祭りの日となった。
今年のテーマか。
年をとっても社会に参加したい人の思いを、
主神様にお委ねしに行こう。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/10 20:57
地上天国がもうすぐだ。
大祭の前か後、かならずのように浄化する。
浄化だとわかっていても、やはり簡単には感謝の気持ちにはなれない。

今回も、少しだけショックなことがあった。
ちょっとだけ予感していたので、そう落ち込むことはない。
しかし、いい気分で大祭に参拝したかったとは思う。

いやいや、これでいいのだ。
と、強がってみたりしておこう。
返信10
c
childrenさん (7mka8kpj)2020/8/17 20:47 (No.112969)
アセモだって、神の愛。

暑い日が続き、先々週からアセモも悩まされている。
首筋がアセモだらけになったのだ。
冷たいタオルで拭き取るのだが、拭き取るたびに痛い。
ところが先週頭から、アセモは腕の上部がひどくなった。
そでに包まれている部分だ。

しかし、首筋には一切、アセモが出ていない。
首筋の汗量は、変らないどころが大量になった気がするくらいだ。

これを体験して思うのは、首筋の毒素がアセモになって排除されたのではないかということ。
かなりの部分まで排除が完了したから、汗をかいてもアセモにならないのではないか、と。

そう考えれば、上腕部のアセモも我慢できる。感謝できる。
というか、今週は、腕の下部、手首に近いところに大量発生している。

かゆいけど、神の愛だと思えば、我慢できる。感謝できる。
秋が楽しみになったり、もする。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/21 22:40
アガペーとエロス。
どちらも「愛」と訳されるが、
アガペーは神から、エロスは人間同士だ。
小生は、エロスを恋と訳してしまうのだが……。

共通点は、見えないこと。
神が見えない存在であることは周知のとおりだが、神の経綸となると
もっと見えにくい。
エロスだって、なにかも丸見えだと、エロスの感情が起こらない。

あたかも自分が神であるかのように語る人がいるが、興味をひかないのは
そのためかもしれない。
見えないから信仰できるし、見えないから恋もできる。
「見えない」ことの意義をかみしめる。
返信1
c
childrenさん (7m4n0ij7)2020/8/6 22:01 (No.109563)
小生には無信仰時代というのがない。
だから、信仰のない人のことはイマイチわからない。
しかし、同じような経験はあるのではないかと想像する。

というのは、悔しい思いをしたとき、誤解されたとき、など人を憎いと思ったりする。
ここまでは誰でもあると思うが、たまに悔しさのあまり、腹いせとして人を陥れたりする人もいる。
単なる、悪口だけなら、日常的に見かけるのではないだろうか。
根拠のない悪口だ。

小生の場合は信仰を持っているので、腹いせ的に悪口を言うことはまずない。
なぜなら、神様には奉告するからだ、
そうすると、神様は、なんらかの回答をくださる。
相手が左遷されたり、死亡したりということもある。

不合理なことに出合っても、他者をとやかく言わないですむのは実にありがたい。
万一、自分の間違いであったとき、取り返しのつかない事態になってしまうからだ。
もちろん、神様がお許しになるはずはないだろうしな。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/18 23:39
ワクチンの害をやたら否定する声がある。
かなり虚しい。
これだけ多数の人、小生の周囲でも5人中4人までが、高熱に悩まされたと
訴えている。
1~2日で治まるようだが。

昨日、自民党総裁選について、一人の候補者を落選させようと言う会から
メールが来た。
中身は読んでいないが、悪口だろう。

日本も、周辺2国からやたら悪口を言われている。

悪口を言う心理、事情とは何だろう。
自分たちのウソがばれるのが怖いというのもあるのではないだろうか。
歴史認識など、事実にないことを吹聴してきたから、バレるのが怖い。

同じことは、わが世界メシア教への誹謗中傷にも言えるかもしれない。
ウソがバレるのが怖いから、事実にもないことを言って、攻撃する。
絶対力を持ったメシアが降誕した以上、ウソはバレるに決まっている。
無駄な努力だと思う。

それにしても、世界メシア教の悪口を言っている教団には、どんなウソを
隠してるのかなぁ。
興味津々。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/17 22:14
ワクチンを強制接種させる動きが強まっている。
為政者にしてみれば、一日も早く、安定させたいからだろう。
個人の権利などは、この際、泣いてもらおうというわけだ。

この論理もわからないではない。

しかし、時代が進んで、ワクチンの害が公になったとき、
国家はとんでもない罪を犯したことになってしまう。
ワクチンの危険性は、厳然として否定できずにいる。

その危険が否定されないものを強制接種させる愚。
目先の利益にこだわりすぎではないだろうか。
敗戦前のわが国を見ているようでならない。
返信2
c
childrenさん (7j9anzbq)2020/5/26 14:15 (No.84721)
メシアとは、創造主である神の子どものこと。

男性と女性が結ばれて、子どもが生まれる。
同じように、
 縦と横が結ばれて、メシアが生まれる。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/6 19:14
イエスを贖い主として受け入れる。
これはわりと違和感なく、すんなりとできる。
ただ、一つだけ、モヤモヤが残る。
血の贖いだ。

小生は今まで神は愛だし、美だから、人間を赦してくださる存在だと考えていた。
それなのに、磔なんて、あまりに残虐だし、美しくない。
神様が、そんなことをなさるなんて……という感じなのだ。

もちろん時代も場所も違う。
古代の、民族入り乱れた地で起こったことで、現代の日本とは無関係だと
思いたかった。思いたかった。

この部分だけが、これまでキリスト教と相いれなかった部分だし、
今でも少しだけ相いれない感覚は残っている。
いうまでもなく、それが神様の事実なら、受け入れるしかないのだが……。
返信1
c
childrenさん (7nsp6m44)2020/9/17 22:48 (No.122457)
天国に暮らすということは、神とともに暮らすということだと思う。
何かあったら、すべて神様に奉告する。
これが、天国に暮らすということだと思う。

神といっても、いろいろ。
もちろん、すべてをお作りになり、すべてを支配している神様。
つまり、主神様だ。

この主神様、さすがは主神様だけってすべてお見通し。
いまのところ、とても厳しいと実感するばかりの天国生活なのだ。グスン
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/5 21:38
天国にいると信じている。
天国だから、すべては浄化。
これまで浄化とはいっても、乗り越えられなければ悪化でしかない。
そういう気持ちでいた。
嫌だなと思うことがあると、神様の意図に沿わないせいではないかと、
あれこれ自分の悪いところを探していた。

最近、まず感謝しようとしてみることにした。
嫌だなと思う出来事に遭遇したとき、よくなるための浄化だから
まず「ありがとうございます」と奉告することにした。

そのせいか、結果はよい。
天国にいるんだから、すべては浄化。
浄化をいただいたことに感謝しよう。
こんな当たり前のことなのに、数十年信仰してきて、やっと実行できるように
なったわけである。
情けないと言われれば、仰る通り! と認めるしかない。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/13 21:38
小生が子どものころ、御霊紙というものがあった。
お供物などを包んだ紙を小さく切って、傷や腫れ物に張った。
治ると、自然にはがれるが、それまでは張り付いたままだった。

明主様が霊を入れたものもあって、それは目を見張るほど効果が
あったようだ。
なかには田畑に入れて、高収穫を得ることもあったという。

いつごろなくなったのかはわからないが、おそらく医療行為との
からみで控えるようになったのではないだろう。

今の時代に御霊紙を復活させることはないだろうが、懐かしい。
想念の時代、御霊紙は想念ということなのだろう。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/29 18:56
世界メシア教では、祖霊祭祀も、自分の家のご先祖様に対してだけではない。
信者も未信者も、国籍も関係なく、ありとあらゆるご先祖様を祀っているようだ。

自分の家のご先祖様だけだって、さほど救われているとは思えないのに……
なあんて気になったりもする。

しかし、すでに天国。
天国では、みんな一つ。
区別する必要がないのだと思う。というか、
区別しても意味がないのだろう。

世界中の人が天国に行けるように、世界中のご先祖様も天国に行けるのだ。
要は、天国に行ける、行こうとするご先祖様が増えることを願えばいいのだ。
そのなかに小生の家のご先祖様もきっと含まれていると信じて。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/6/19 19:03
信者だけなので、という前置きのうえでの聖言。

 「仏には罪があるので、……本当の働きができない」

もちろん悪事でもなければ、責められるような罪でもない。
その時代には避けられない、しかたのない罪なのだ。
衆生を救いたい気持ちから生まれたうそなのである。

仏界にいたら、罪を作らざるをえなかったということ。
ということは、天国に行かない限り、我々も罪を重ねていく
しかないということではないだろうか。

仏様は、本来の神様に戻って初めて、本来の働きができる。
我々も、本来の天国に行って初めて、本来の働きができるということ
なのではないだろうか。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/5/8 20:43
明主様の聖言には、天国は、「冬なき、夜なき世界」とある。
冬も夜もない世界ってあるのだろうか?

真明様のお言葉によれば、想念の世界だとのことだ。
いくら想念の世界とはいえ、冬も夜もあったほうがいい。
雪だって、月だって、あったほうがいいし……。

なんてことを考えてみるのだが、おそらく冬も夜もなくならないだろう。
四季があってこその芸術だし、夜がなかったら芸術もありえないのだから。
要するに、辛すぎる冬、不毛の冬であり、悪魔が横行する闇の夜がなくなるという
ことだろう。

四季を楽しみ、月夜を味わい、星にロマンをはせることはなくならないはずだ。
言葉ってのは、本当に難しい。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/10 07:12
不安なことがあるとする。
通常、不安を回避しようとして、アレコレ手をつくす。

しかし、その不安がただの思い込みであったり、まちがった捉え方であり、
本当の不安のタネは別のところにあったりすることもある。

下手に手を尽くしたことで破滅へとつながることも珍しくない。
高熱が出たとする、悪影響がないように熱を下げようする。
これが結果として、体を破滅させてしまうことがあるのと同じだろう。


そうではなく、すべては神様のなさることと考え、すべてを神様にお委ねする。
元々の持ち主である神様に、どんな結果になろうと、すべてお委ねする。
神様の光とは愛だとのことであるから、その愛の邪魔をしないようにする。
お委ねするとは、こういうことだと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/8 21:08
「お委ねする」というと、他力本願、自分は何もしないで神様任せの手抜き
という印象を受ける人も多いようだ。

言うまでもなく、違うはず。

小生が思うには、神様の邪魔をしないことではないかと。

 親は子を 育ててきたと 言うけれど 勝手に赤い 畑のトマト (俵 万智)

本当の親である主神様の邪魔をしないようにすれば誰でも幸福になる。
自然農法も、医薬害も、我を去れ、執着を取れ、もすべて
主神様の意図に委ねることを教えたまでのことだと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/4/7 21:06
天国に暮らしているからといって、思い通りになることばかりではない。
失意の底に沈むこともある。
底からの脱却がやや速いということはあるかもしれない。

底にいるときは、神を信じられなくなることもないとはいえない。
でも、もういいのだ。
小生はどこまでも神を信じると決めたのだ。

どうなるかわからないけど、神を信じて生きていく。

といって絶体絶命とかじゃなく、
ただ思い通りにならなかった、というだけなんだけどな。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/1/21 22:31
政治家、芸能人、一般社会でもそうだが、
よく感情的にむかつくなどといって、人を批判することがあある。
そう場で使われる言葉の例に、「生意気」「性格がわるい」などがある。

その人が社会にどんな害をもたらしたかとは関係なく、だ。

これは、個人の感情で世の中を支配しようとする行為ではないだろうか。
個人の感情はもちろん、すべては主神様のもの。
個人的感情で、批判するのは、世の中を私物化することであり、主神様のものを
奪うことでもあると思う。

嫌な感情に襲われたときは、メシアの御神様の名の下に、主神様におゆだねすることを、
小生は訓練中だ。

かの国の大統領選びも、その一つだ。
返信9
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/9 20:05 (No.169359)
世界メシア教の魅力について考えてみた。
もちろん教祖の思いを具現化しているからではあろうが、もっと卑近な視点、
信者としての視点で見つめてみた。

まず、何よりも、救世教時代に感じていた疑問が次々に解明されたことだ。
小生はかつでいろいろな場面で、問うていた。
「明主様は120歳まで生きるつもりだったようなのに、なぜ70歳そこそこで帰幽されて
しまったのだろう」

そのたびに、いろいろな解答が返ってきた。
しかし、一つと言えど納得する解答はなかった。
そのうちに、そういう疑問を抱くことが、無礼にあたると言われるようになった。
小生も、別に明主様が間違ったとは考えていなかったし、いくら質問しても納得いく解答は得られそうも
ないので、表に出すことはなくなった。
かといって、疑問が消えることはなかった。

だから世界メシア教でも、そんな質問を投げることはなかった。
しかし、いろいろな教導を通して、小生なりの答えに出合った。
その答えが正しいかどうかはわからないが、疑問を抱くことはなくなった。

病気が治って信仰する人はたくさんいるが、治ってしまえば、あとはなんとなく惰性の
信仰になる傾向が否めない。
その点、次々に疑問が晴れていく信仰、言い換えれば知的好奇心を掻き立ててくれるところが、
世界メシア教の魅力の一つだと思う。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/9/1 20:29
当時に限定したことなのか、
現在にも通じることなのかはわからない。

古い聖言によれば、信仰面は縦で、組織運営は横で、という
構想を持っていたことが窺える。

組織が、信仰をも牛耳ろうとしたこと、これが問題だったのではないだろうか。
一時的には必要だったとしても、必要が過ぎたら、正しいあり方にもどす。

自画自賛で心苦しいが、わが世界メシア教は、
明主様の構想に合致した体制にあるように映る。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/3/23 21:39
主神様は、1柱だけ。
明主様も、お一人だけ。
現在、明主様につながる教団は多数ある。

このままバラバラに推移していくという考え方もある。
各教団が得意を活かして、その部分で独立していく。
それもいいだろう。

だが、1柱しかの主神様のご意図は、1つ。
明主様も、「本教に分派はできない」と仰っているそうだ。

小生は、いずれ1つに収束していくと考えている。
その1つとは、最も明主様のみ心に近い教団であり、主神様のみ心に近い教団だと思う。

小生は、その1つが、わが世界メシア教であると考えている。
それは最初から決まっていることだと思うので、必要以上にアピールすることではないと
考えているのだ。
自然にそうなるのだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/3/7 20:39
わが世界メシア教の忘れてならない魅力は、きちんとした教主様をいただいていることだ。
もう1人いるにはいるんだが、なんとも珍妙な存在だ。
まず信者のほとんどが顔も名前も、教主であることさえ知らない。

600年前の南北朝時代の天皇でさえ、出自は天皇家である。
南も、北も、天皇家であることに変わりはない。
ところが、このもう1人の教主は、宗家とはなんらのかかわりもない。
宗家は、わが教主で一致しているのだ。

なんだか悪口になったので止めよう。

とにかく、どこに出しても恥ずかしくない、正々堂々と教主と名乗れる教主様を
いただけていることは、忘れてはならない世界メシア教の魅力なのだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/3/6 18:08
小生は、宗教は最高のところを信じたい。
最高がいいのは、宗教だけでもないんだろうけど。
ところが、そう簡単に最高のものに縁をいただけるとは限らない。
やむを得ず、与えられたものを受け入れることになる。

その場合でも、最高が見えているかどうかは重要だと思う。
やむを得ず受け入れたところで修行を積んだのちに、どんな世界が見えているか。
それによって、やる気も変わる。

宗教に関していえば、最高のものとは、主神様を信じることだと考える。
すべての創造主であり、すべての持ち主でもあるのが、主神様。
その主神様を信仰の対象とするのが、わが世界メシア教だ。
これもわが教団の魅力の一つだと考えている。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/3/5 19:40
人には、それぞれ役割があり、個性がある。
だから自分の思ったとおりにやっていけばいい。
小生もそれでいいと考える。

信仰だって同じで、自分がいいと思った信仰をすればいい。
これにも同感である。

ところが主神様は一柱であり、そのみ心も一つだと思う。

バラエティ豊かな個性と、一つしかない主神様のみ心。
相反する2つをどう整合性をつけていくか。

小生が思うに、目的地と、道程だと思う。

どんな道のりを通るかは各自の自由だが、目標とする地点を明確に
持っておかないとどこに行ってしまうかわからない。
ときには、滅びの道をひた走ることにもなりかねない。

目標とする地点。
それは、主神様のみ心。
そこに到達点を置いているのが、わが世界メシア教だ。
この点も、世界メシア教の魅力の一つだと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/3/1 19:47
世界を見わたせば、たくさんの「メシア」がいるようだ。
過去にさかのぼって見渡したら、なおさら多くのメシアがいるのだろう。

たくさんのメシアのうち、わが世界メシア教のメシアは、他のメシアとどうちがうんだろう。
それとも、違わないのだろうか。

聖書によれば、たくさんの偽メシアが誕生するとある。
そのなかで本物のメシアとは……。
言うまでもなく、小生はわが世界メシア教のメシアこそ本物だと思いたいし、
信じてもいる。

だからといって、本物・ニセモノ論争に参入しても争いの源になるだけだろう。
したがって、そんな論争には巻き込まれたくない。

というわけで、世界メシア教のメシアと、他のメシアとの違いだけを確認しておきたい。
世界メシア教のメシアは、「明主様と共にいらっしゃるメシア」であり、
明主様が新しく生まれ、降誕したメシアだということ。

わがメシアと、他のメシアとの違いは、どうなって現れるか。
今後の世界の動向、推移を楽しみにするばかりだ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/28 20:37
わが教祖、明主様は最初、宗教形式をとってご神業をスタートした。
おそらく仏教、観音だったと思う。
なにせ生まれる前のことなので、そう定かには知らない。

その後、一旦、宗教形式を封印し、治療行為に転じた。
これは、戦時体制における宗教弾圧を回避するためだったと思われる。

戦後は逆に、医療行為への軋轢を避けるために、宗教に復帰する。

いつからかは知らないが、法華経を一部改変した善言讃詞、並行して
神道による神言、天津祝詞を用いるようになった。

仏教、神道の形式を取り入れ、世界布教にともないキリスト教形式を取り入れる
ようになった。
すべて教祖、明主様のご聖言のなかに記述されていることだ。

ひごろ明主様、明主様と言っている人たちだが、なぜ、キリスト教形式を取り入れる
ことだけ、ことさら異を唱えるのかが不明だ。

こういう場合、ありがちなのが、本意は別のところにあるということ。
キリスト教との呼応には別段反対ではないので、あえて表に出したくない、出せない
理由があるということだ。

いかがかな?
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/27 19:24
信仰を打ち出せる教団と、
他教団に言いがかりをつける材料探しに躍起な教団。

信仰を打ち出せる教団は、あまりない。
メシアのご神業を打ち出しているわが世界メシア教に
所属させていただいている身のありがたさを痛感する。

これもやっぱり、世界メシア教の魅力だと言える。
成長が止まると、他のあら捜しを始めるのは、人間の特性かもな。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/25 19:31
歴史を振り返ってみると、たしかに王制には問題がないこともない。
独裁になりやすかったり、暗愚な王をいただいてしまったり、などなど。
これらの事例も一つひとつ掘り起こしていけば、別の見方があるのかもしれない。
ただ、それには時間がかかる。

今の時点でいえることは、過去のメシア降誕前の王制であることだ。
これからはメシアの時代の王制を目指して、信じていけばいいのだと思う。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/24 19:42
聖書には、「メシア王国」という文言はあるが、
メシア共和国という文言はないのだとか。
小生が自分で確かめたわけではないが、キリスト教関係者の言によれば、そうらしい。

歴史を振り返ってみても、意外なことに、原初は共和政から始まり、やがて王制になるのだそうだ。
つまり、王制のほうがより進化した形態ということでもあろう。

明主様に基づく教団のなかで、組織の上に教主をいただくのは、世界メシア教だけだったと思う。
もう一つあるにはあるが、その教団の信者さえ知らないほどの教主だ。

活動力ある教主様をいただけているのも、世界メシア教の魅力の一つとして挙げたい。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/14 23:26
魅力の2番目。

キリスト教ユーチューバーによれば、
ユダヤ人があれほど悲惨な目に遭った原因として、
本来の旧約聖書以外に、ユダヤ教専従者が独自の解釈による律法を強いたことによると
言う。

わが元教団でも、専従者が独自の解釈によって、さまざまな場面で信者に強いたきた過去がある。
それによって、万一ユダヤの民のような悲惨な目に遭うことがあったとしたら……。
かなり恐ろしい。

その点、世界メシア教には上から強いる専従者はいない。
独自の解釈で教祖の聖言を信者に強いる専従者がいない。
かなりの安心感だ。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/13 11:07
魅力の1番目。

キリスト者によれば、メシアがどういう環境で、どんな姿で現れるかは、旧約聖書に
記されているそうだ。
ユダヤ人で、アブラハムの子孫で、ユダヤ王家の末裔で……。

羊のような頭でという部分は、明主様に合致しているが、その他の部分はどうなるんだろう。

主神様は、このあたりの整合性をどうおつけになられるんだろう?
知的好奇心のネタは、次々と現れる。
興味津々だよ、ほんとっ!
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/11 13:42
世界メシア教の、3つ目の魅力。
毎日が、どこでも天国があることだ。

以前は、聖地に参拝すれば、気分がいいし、天国にいる感覚になれた。
しかし日常にもどると、天国感覚は一瞬にして消えた。

今は滅多に聖地には参拝できないが、毎日が聖地にいる感覚なのだ。
みすぼらしい家屋で、大した仕事もしていないのだが、気分だけは天国なのだ。
なぜかわからないがウキウキしている。

みすぼらしい家屋を掃除するときは、天国を掃除している気分だ、
大した仕事ではないが、神様の仕事をしているという気分なのだ。

どこでもドアならぬ、どこでも天国。
これが、世界メシア教の魅力だと感じている。
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/2/10 21:35
世界メシア教、信者視点で見た魅力の2つめ。
何といっても、えらそうに教祖のご聖言を語る人がいないことだ。

えらそうに語る人の特徴として、あたかもご聖言を我がものであるかのように語り、
指導という語を用いて、他者を裁いてしまる点がある。
ご聖言は、どこまでも教祖、明主様が与えてくれたもので、自分たちはどこまでも
教えていただいた立場であることを念頭に置いておかないと鼻もちならない存在になって
しまう。

人に教えるとき、自分の身についていないことは、伝わっていきにくい。
えらそうに語る人の行動をちょっと見ると分かるが、ご聖言を実行している人は少ない。
自分にできないことを人に伝えるから、正確に伝わらないし、舐められてしまう。
口には出さないけど、多くの信者は、こういった偉そうに語る指導者を内心では、なめ切っている。

世界メシア教には、こうした専従者も、信者もいない。
少なくとも、小生の周囲には見当たらない。
誰でもが自由に発言し、「わからない」という言葉を平気で出している。

要は、顔色を窺わないといけないエラそうな存在がいないことが不快感を招きにくいのだと思う。
返信14
c
childrenさん (7jowmn9u)2020/6/6 12:26 (No.88036)
御教えには一見、矛盾しているかのような記述がいくつもある。
そのため、ある人はある個所を、他の人は他の箇所を信じ切って思考停止させる
ことが非常に多い。

たとえば、善と悪。
ある個所には「人間に善悪はわからない」とあり、
他の個所には「悪に負ける善は、善ではない」とある。

矛盾に思える2つが矛盾ではない。矛盾しているかのように思える思考が
神のみ心と矛盾しているように思う。

古典物理が説明できないところから、現代物理が生まれた。
だからといって、古典物理も現代物理も正しいのと同じだろう。
返信
c
childrenさん (7vywzq1h)2021/8/29 10:19
ミュージカル俳優さんが言った。
 自分の内面を言葉で表現するのは照れくさい部分がある。
 でもミュージカルなら、歌なら、照れくさい部分も表現できる。

宝塚の元男役トップスターさんが言った。
 愛とか好きとか、平気な顔で言えるのは宝塚の舞台だけ。

聖言とは、いわゆるみ教えと呼んでいるものだけはなく、み歌、日常の会話など
すべてを含めた呼び方だ。
話し言葉、書き言葉だけで著わされた明主様以外の、内面も含めた部分まで
お会いするには、聖言のほうがよりふさわしいと思う。
返信1
c
chidrenさん (7m7iv6t4)2020/8/8 22:28 (No.110347)
日本のリーダーたちは、いつの時代も、窮地になったとき、
天皇の下に集まった。
大化の改新、平安末期、源家の将軍家維持・断絶、徳川幕府の確立、幕末……。

多くの外国は、窮地に立ったとき、王家を倒す。
カエサル殺害、フランス革命、ロシア革命……。

日本が国家として長い命を保ってきた理由の一つがここにあるように思う。

わが教団が内紛のとき、小生たちは教主様の下に集まった。
その結果、分裂していた3派が融合して、世界メシア教が誕生した。
なんか、うれしい。
返信
c
childrenさん (7q3l7suk)2021/8/19 07:03
故古賀稔彦氏に縁があったのは、オリンピックの1年ほど前のことだった。
彼は、「柔道を習う目的は、優しい人になるためだ」と教えているそうだ。
優しくないと多くの人々から愛されないし、多くの人々から愛されないと
勝てないからだということだった。

選手として頂点を極めたあと、彼は指導者に転じる。
女子柔道の指導で失敗し、その失敗を生かして、子どもの指導に転じた。
そこで、目立たない子、勝てない子を見ていて、こうした子どもたちがいないと
勝つことのできる子も勝てないことを知ったようだ。

トップに立つということは、すべての人の存在に価値を認め、そこを生かして
いける能力を持った人ではないかと思う。
返信1

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